是に火遠理命、其の初めの事を思ほして、大きなる一歎(なげき)したまひき。故、豊玉毘売、其の歎きを聞かして、其の父に白言ししく、「三年住みたまへども、恒は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる一歎き為たまひつ。若し何の由有や。」とまをしき。故、其の父の大神、其の聟夫に問ひて白しく、「今旦我が女の語るを聞けば、『三年座せども、恒は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎為たまひつ。』と云いき。若し由有りや。亦此間(ここ)に到(き)ませる由は奈何に。」といひき。爾に其の大神に、備(つぶさ)に其の兄の失せにし鉤を罸(はた)りし状の如く語りたまひき。是を以ちて海神、悉に海の大小魚(おほきちいさきうお)どもを召び集めて、問いて白しく、「若し此の鉤を取れる魚有りや。」といひき。故、諸の魚ども白ししき、「頃者、赤海鰂魚(たひ)、喉に鯁(のぎ)ありて、物得食わずと愁ひ言へり、故、必ず是れ取りつらむ。」とまをしき。是に赤海鰂魚の喉を探れば、鉤有りき。即ち取り出でて,洗い清まして、火遠理命に奉りし時に、其の綿津見大神誨(をし)へて白ひしく、「此の鉤を、其の兄に給はむ時に、言りたまはむ状(さま)は、『此の鉤は,淤熕鉤(おぼち)、須須鉤、貧鉤(まじち)、宇流鉤』と云いて、後手(しりへで)に賜へ。然して其の兄、高田(あげた)を作らば、汝命は下田を営りたまへ。その兄、下田を作らば、汝命は高田を営りたまへ。然為たまはば、吾水を掌(し)れる故に、三年の間、必ず其の兄貧窮(まず)しくあらむ。若し其れ然為たまう事を恨怨(うら)みて攻め戦はば、鹽乾珠を出して活かし、如此惚(なや)まし苦しめたまへ。」と云いて,鹽盈珠、鹽乾珠併せて両個(ふたつ)を授けて、即ち悉くに和爾魚(わに)どもを召び集めて、問いて白ひしく、「今、天津日高の御子、虚空津日高、上つ国に出幸(い)でまさむと為たまふ。誰は幾日に送りて奉りて、復奏(かへりごとまを)すぞ。」といひき。故、各己が身の尋長の随に,日を限りて白す中に、一尋和邇白ししく、「僕は一日に送りて、即ち還り来む。」とまをしき。是爾に其の一尋和邇に、「然らば汝送り奉れ。若し海中を渡る時、な惶畏(かしこ)ませまつりそ。」と告りて、即ちその和邇の頸に載せて、送り出しき。故,期りしが如、一日の内に送り奉りき。其の和邇を返さむとせし時、佩かせる紐小刀を解きて、其の頸に著けて返したまひき。故、其の一尋和邇は、今に佐比持神と謂ふ。
是を以ちて備に海神の教へし言の如くして、其の鉤を與へたまひき。故,爾(そ)れより以後は、
稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起こして迫め来ぬ。攻めむとする時は、鹽盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請(まを)せば、鹽乾珠を出して救い、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、稽首(のみ)白しく、「僕は今より以後は、汝命の昼夜の守護人と為りて仕へ奉らむ。」とまをしき。故、今に至るまで、其の溺れし時の種種の態、絶えず仕え奉るなり。
01淤熕鉤(おぼち);おぼつかない鉤、須須鉤(すすぢ);たけり狂う鉤、貧鉤(まぢち);びんぼうな鉤、宇流鉤(うるぢ);愚かな鉤
02稽首:頭を下げる
【Yishiのつぶやき】
話の結末は思わぬ展開だ。兄の海彦の釣針を借り、それを紛失し、大変弱っていた山彦が、釣針が縁で海神と出合い、豊玉姫と出合い、色々教えて貰って気が着けば、弟に詫びを入れ部下になっている。ここ100年ぐらいは聞かない話と思っていたら、古代は末子相続であったとの事。さらに、海彦・山彦の話がここで出て来るのは、この時期、薩摩隼人が大和に帰順したことと一致し、この事実を公にするため古事記に加えたとする説もあり、関西人とはやや異なる鹿児島がこの時期大和に帰順したことは、大和人からすると鹿児島は竜宮城だったかとの想像も広がり興味深いことである。

宮崎市HPより
本日はここまでとしましょう。
是を以ちて備に海神の教へし言の如くして、其の鉤を與へたまひき。故,爾(そ)れより以後は、
稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起こして迫め来ぬ。攻めむとする時は、鹽盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請(まを)せば、鹽乾珠を出して救い、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、稽首(のみ)白しく、「僕は今より以後は、汝命の昼夜の守護人と為りて仕へ奉らむ。」とまをしき。故、今に至るまで、其の溺れし時の種種の態、絶えず仕え奉るなり。
01淤熕鉤(おぼち);おぼつかない鉤、須須鉤(すすぢ);たけり狂う鉤、貧鉤(まぢち);びんぼうな鉤、宇流鉤(うるぢ);愚かな鉤
02稽首:頭を下げる
【Yishiのつぶやき】
話の結末は思わぬ展開だ。兄の海彦の釣針を借り、それを紛失し、大変弱っていた山彦が、釣針が縁で海神と出合い、豊玉姫と出合い、色々教えて貰って気が着けば、弟に詫びを入れ部下になっている。ここ100年ぐらいは聞かない話と思っていたら、古代は末子相続であったとの事。さらに、海彦・山彦の話がここで出て来るのは、この時期、薩摩隼人が大和に帰順したことと一致し、この事実を公にするため古事記に加えたとする説もあり、関西人とはやや異なる鹿児島がこの時期大和に帰順したことは、大和人からすると鹿児島は竜宮城だったかとの想像も広がり興味深いことである。

宮崎市HPより
本日はここまでとしましょう。