数年前、イタリアの都市モンツアの市議会はペットショップの店主に対し、金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止しました。その根拠として、金魚鉢に入った金魚には外の世界がゆがんだものに映ってしまうので、金魚にとって残酷であると告げました。
現実を異なった視点から見ている例としては、プトレマイオス(85-165)によって150年頃に提唱された、天体の運動を記述するモデルが有名です。下の写真(ホーキング、宇宙と人間を語るより)です。
地球は宇宙の中心に静止しており、その周りを惑星や恒星が複雑な軌道で回っています。普段私たちは足下にある地球が動いていることを意識しません。その点でプトレマイオスのモデルは自然に思えます。古代ギリシャ以降のヨーロッパにおける教育は古代ギリシャの文献に基づいていたので、アリストテレスやプトレマイオスの説は大半の西洋思想の基礎となっていました。プトレマイオスの宇宙モデルはカトリック教会に採用され、1400年の間公式教義とされてきました。1543年になってコペルニクス(1473-1543)によってプトレマイオスに代わるモデルが提唱されます。
コペルニクスは、太陽は静止しており、その周りを惑星が回っていると記述しました。その17世紀も前に生きたアリストテレスと同じような説です。この考えは別に新しいものではありませんでしたが、凄まじい抵抗に遭うことになります。実は、聖書が書かれた時代には地球は平らだと信じられていたのです。コペルニクスのモデルは、地球が静止しているかどうかに関する激しい議論を巻き起こし、1633年にガリレオが異端信仰の容疑で裁判にかけられることになりました。裁判の結果は有罪になりましたが、ローマカトリック教会がガリレオの有罪判決が間違いだったことを認めたのは、1992年で、実に360年を要しています。
これらの例から重要な1つの結論を導くことができます。それは、実在という概念は描像や理論から独立して存在することはないということです。そこで「モデル依存実在論」と呼ぶ視点を採用しましょう。プラトン以来、哲学者たちは何年にもわたって現実というものの性質を議論してきました。古典的な科学は性質が明確で、それを知覚する観測者からは独立であるという信条に基づいています。
【近年現代物理学から得られる知見によって実在論に綻びが生じてきました。量子物理も一例です。】
量子物理では、粒子は観測者によって測定されるまで、はっきりした位置も速度も持ちません。測定によって得られた値は、その測定が得られた時間にその値であったということなので、測定がある確かな結果を与えるというのは正確な表現ではありません。実は、個々の物体は独立して存在せず、たくさんの状態の重ね合わせの一部として存在することもあるのです。そしてホログラフィー原理と呼ばれる理論が正しければ、私たちや私たちのいる4次元空間の境界面に張り付いた影である可能性が出てきます。その場合宇宙の中での私たちの状態は、金魚鉢の金魚と同じようなものなのです。
19世紀の多くの人たちは、それを見たことがないという理由で原子の存在を認めませんでした。アイルランドの哲学者ジョージ・バークリー(1685-1753)は、精神と観念以外には何も存在しないとまでいいました。バークリーの友人がイギリスの作家であり、独力で「英語辞典」を完成させたサミュエル・ジョンソン(1709-1784)に、バークリーの主張が間違いであることは証明できないのではないかと尋ねたことがありました。するとジョンソンは、大きな岩まで歩いていきそれを蹴ってこう言いました。「ほら彼の主張は間違いだろう。」
もちろん、ジョンソンが経験した足の痛みも彼の精神の中の観念であるので、彼がバークリーの考えを間違いであると証明したわけではありません。しかし、彼の行動はイギリスの偉大な哲学者ディヴィッド・ヒューム(1711-1176)の考えを体現しています。ヒュームは著書の中で、「私たちは現実が本当に実在していることを信じるに足る道理にかなった理由を持たないが、それでも私たちは現実が真実であると思って行動する以外に選択肢がない」と語っています。
モデル依存実在論が解決できる、または少なくとも避けることのできる問題は、まだあります。それは「存在」の意味です。私たちがテーブルのある部屋から出てテーブルを見ることができなくなったとき、私たちはどうやってその部屋にテーブルが存在していることを知るのでしょう。電子やクォーク(陽子や中性子を形作っている粒子)のような目に見えないものを存在するということにはどのような意味があるのでしょうか。私たちが部屋を去るとテーブルが消え、戻って来たら同じ位置にテーブルが再び現れるモデルを作ることもできますがそれでは不便でしょうし、私たちが部屋を出ている間に天井が崩れたり、何かが起きたりしたらどうするのでしょうか。「テーブルがそのままでいるモデル」の方がずーっと単純な上に観測結果とも一致します。
目には見えない原子より小さい粒子、たとえば電子は、霧箱の中の粒子の飛跡やブラウン管上の光の点を始めとした、さまざまな現象の観測結果を説明するのにとても便利なモデルです。電子は、1897年にケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の物理学者ジョセフ・トムソン(1856-1940)によって発見されました。トムソンは空のガラス管の内部に電極を封入し電流を走らせる実験をしていて、高い電圧をかけると陰極から放電する現象を見つけ、この奇妙な光線は原子を構成している小さな微粒子の集まりであると結論付け、この微粒子を電子と名付けました。当時は原子が物質の最小原子と考えられていたのです。トムソンは電子を見たわけではありませんが、「電子」というモデルは基礎科学から工学にわたる分野で非常に重要であることが証明され、今日ではすべての物理学者が目に見えなくても電子の存在を信じています。
クォークは、これも目には見えませんが、原子核中の陽子と中性子中の性質を説明するモデルです。陽子と中性子はクォークからできていると言われていますが、私たちは単独のクォークを観測したことがありません。というのも、複数のクォークの間に働く束縛エネルギーがクォーク同士が離れるほど大きくなりため、孤立し自由にはたらくことのできるクォークは自然界には存在しないのです。その代わりに、クォークはつねに3つ1組(陽子と中性子)で現れたり、クォークと反クォークの1対(パイ中間子)として現れたりします。そして、それらはまるでお互いがゴムひもで繋がれているかのようにふるまいます。
クォークモデルが最初に提唱されてから数年間、クォーク単体を分離できないのならクォークが存在すると言ってよいのかという点が論争の的となりました。性質の違う複数の粒子がいくつかのより小さい粒子の異なる組み合わせから成り立っているという考え方は、その性質を説明する上で単純で魅力的な構成原理を提供します。
ここで良いモデルの条件を提示しましょう。
1. 簡潔である。
2. 任意の、あるいは調節できる要素が少ない。
3. すべての観測事実を矛盾なく説明できる。
4. 将来の観測に対する予言、特にその内容が観測結果に合わなければモデルが間違っていると判るような詳細な予言ができる。
ハッブル(1880-1953)は、宇宙の膨張を直接観測したわけではありませんでした。彼は銀河から放たれる光を観測したのです。銀河からの光は、その銀河にある原子や分子などによって特有な色の強度、すなわちベクトルを持っており、そのスペクトルはその銀河が私たちに対して近づいているのか、遠ざかっているのかによって決まった量だけ変化します。遠くにある複数の銀河スペクトルを分析することで、ハッブルはそれらの銀河の運動の速度を決定できたわけです。
当初、ハッブルは近づいてくる銀河と遠ざかっている銀河が同じ数だけ見つかるだろうと予想していましていましたが、結果は異なり、すべての銀河は私たちから遠ざかっていたのです。
ニュートンは光は小さな粒子からできていると考えていました。この考え方は光が直線に沿って進む理由を説明できますが、ニュートンリングの説明はできません。光の波としての性質も正しいようです。
一つのモデルですべてを説明するには無理がある。
【Yoshiのつぶやき】ホーキングが説明しようとすることが判ってきました。
M理論の登場です。粒子と波の二重性を一つの理論で説明するのではなく、必要に応じ、複数の理論を使い分けるM理論が登場しました。
(2013-11-17 Yoshi)

