孔子を語る時大切な幾つかの文章がある。次の文章がそうであるが、子供用のテキストには含まれていない。

子曰:“(dao)(xing)(cheng)(fu)(fu)(gan)(hai)(zong)(woe)(zhe)(qi)(you)(yu)?”

(lu)(wen)(zhi)(xi)

子曰:“由(ye)(hao)(yong)(guo)我。(wu)(suo)(qu)(cai)。”


子曰く、道行われず、(いかだ)に乗って海に浮かばん。我に従う者それは(ゆう)?

子路は之を聞いて喜んだ。

子曰く、(ゆう)や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無からん。

無所取材:物事の道理を考える。(無理をする)

The Master said: “If the Way could not be listened, I would board a raft to float to sea, The one to follow me would probably be Zi-lu

Zi-lu, on hearing this, was pleased.

The Master said: “Zi-lu is braver than I, but he does not know how to withdraw. ”


Yoshiのブログ

孔子が50才で魯に仕えていた時、国王は定公、ナンバー2は、季恒子、孔子はナンバー3でしたが、孔子が魯に仕えて魯が栄えたことを妬んで、隣国 斉が魯の攻略を画策しました。

斉は、定公、季恒子に的を絞り、美女作戦を開始、歌って踊れる美女80人を120頭の馬車に乗せ魯に送り込む嘘のような「お色気大作戦」を実施し、定公、季恒子がまんまと術中にはまったのです。ンンバー3の孔子の理想は周のような社会を作ることだったので、主君に深く失望し、魯の国を去る決心をしたのです。この時、弟子の子路に言ったのが上の言葉です。

実際には数十人の弟子と失意の中で魯を離れたようです。この頃の中国には15もの国があり、このうち、衛、曹、宋、鄭、陳、蔡、楚と、黄河から長江に至る国々を歴訪し自分を使ってくれる君主を求めました。孔子の亡命生活は13年に及び、魯に帰国したのは、69才の時でした。

(2012-6-3 Yoshi)