子曰:“吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、
五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩”
子曰く、吾 十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、
五十にして天命を知る。六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
The Master said, “At fifteen, I decided to learn; at thirty, I was established;
at forty, I was free from delusion; at fifty, I knew the decree of Heaven;
at sixty, my ears became subtly perspective; at seventy, I was able to follow my heart’s desire without overstepping the rules of propriety. ”
この文章は、為政第二にある。今回テキストは子供向きのものなので、この文章は入っていない。論語を語る日本人にとってこの文章が無いと、寂しいので、他のテキストから引用した。孔子の第75代子孫 孔祥林によれば、「学に志す」といっても、孔子は3才の頃から勉強をさせられており、またこの時代学校などなく、学校に行ったという事でもない。孔子は文武に長けていたが、15才を期に、武道を捨て文人としての学問の道を選択したのだということです。
孔子が30才の時、子路は21才、願回は8才です。ここで弟子を育てて教育者になろうと決意したのが30才です。
孔子は34才の時、洛陽に老子を訪ねます。この時老子は65才を超えています。この時から孔子の思考が始まったのではないでしょうか。黄河の下流曲阜で生まれた孔子は中流の洛陽まで老子を訪ねていますが、およそ500km離れた洛陽へ老子を訪ねるまでには、十二分の調査がされたに違いないと思う。
孔子より30才以上も高齢のこの思想家の思想の根源は「無」である。
衣食足りて礼節を知るというが、中国3,000年の歴史の中で、衣食が足りた時代など無いから、礼節など有る訳が無い、世の中は無である。という消極的な思想です。孔子は老子を尊敬し学んだとは云うもののその思想には反対で、老子のような考えではなく、むしろ「有」であり、何事にも積極的に臨む態度である。
40にして惑わずは老子と会って5年積極的な孔子流を貫く決意ができたという意味だと思います。
50にして天命をしる。
孔子は、紆余曲折を経て、51才になって政治家になりました。BC501年、魯の国王、定公に請われて中都宰になりました。日本で云えば県知事です。これを天命と考えたのでしょう。
60にして耳順う。
50才が孔子の絶頂期でその後不幸がやってきます。そのあたりは、論語の順に従うものとします。
耳順は、人の話しに耳を傾けるという意味です。
70にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
この時代に70才まで長生きするのは大変なことだと思います。
実際、鯉(孔子の子供)も50才で没し、孔子より先に亡くなっています。
孔子は、BC552年、中国山東省曲阜に生まれました。論語を読むと、日本の文化にその思想が沢山組み込まれています。これを見ても、中国と日本とは大変深い関係で結ばれており、孔子は我々の思考の根源に位置するような気がします。欧米の精神文化の基盤に聖書が或ると思いますが、日本に聖書の様な図書が無いように思う。経典などは難しくて手が出ない。しばし論語を借用し、精神が揺らぐ時、参考にしても良いのではと考えています。
(2012-5-27 Yoshi)