清水寺、大講堂の中央棟・多宝閣で不思議なお釈迦様に出会った。

大講堂は、清水寺開創1200年の記念事業として昭和59年に建立されたものだが、4階建、3棟作りで、多宝塔は、4階まで吹き抜けになっている。4階建てといっても、 玄関から入ったところが、3階となっており、大仏足跡を彫刻した黒大理石を上から覗き込むことになる。


Yoshiのブログ-多宝閣

上の写真は、3階から覗き込んだものだ。サイズ4mのお釈迦様の立像を想定して欲しい。4階建の空間が目の前にあり、出会ったのは実際はお釈迦様の足跡と空間だ。もっとも別途4階に仏舎利が納められているので、空間を見たというのは正しい表現ではないかもしれない。建設当時、計画にたずさわれたご住職の森さんのお話では、頭の中に、敦煌の石窟が有ったという。


正面に見えない釈迦が立ち、20m高の後ろの壁には、約千体の多宝如来、左右それぞれに、阿弥陀如来像千体、薬師如来像千体、手前の壁には釈迦如来像千体、合計4,076体の鋳造の坐像が奉納されている。写真で足跡の上に障子のように見えるもの其々が多宝如来の座像である。


3階から覗いている我々の正面、左右、後ろにも坐像が在り、立っている歩廊の後ろにも坐像がある。我々は3階におり、坐像はさらに4階まで続いている。広々として四方を坐像に囲まれた空間の中で見えない

お釈迦様を見ている構図である。


まさしく遥か敦煌の莫高窟を思い興すものであった。気がつけば、天然ガスを求め、敦煌を超えてウルムチを訪れたことがあったと感無量。

今度の旅の思い出の一つに、旧友との出会いがあった。

19685月、技術導入のためパリを訪れ、シャンゼリゼを歩いていて学生のデモに出会った。この時代日本でも学生運動があって、あまり驚くこともなく、デモに混じってシャンゼリゼを練り歩き、その日はルードベリで泊まり翌日リヨンに行った。ここまでは、何ということも無い平穏な旅であった。

翌日、デモがリヨンに飛び火し、ゼネストに発展し、リヨンで死者がでた。いわゆる五月革命である。交通機関はストップし、リヨンから帰国する足を失った。それでも、四苦八苦し、白タクを捕まえ何とかパリに戻った。

パリから、JALがアムステルダム行きのバスを出してくれた。座席について気がついた。隣に日本人が座っている。どこかで見た顔だ。母校は、入学1,2年は教養課程と称し、教科別でなく工学部全体が一括りであったので、電気の彼と、化工のYoshi3年生から長く会っていなかった。話しているうちにお互い新入生時代を思い出した。日本でも会ったことのない彼との再会であった。今回はさらに44年ぶりの再会だ。

パリを出て、ベルギーで小休止、ロッテルダムまでの夜行バスは海岸通りを走り早朝ロッテルダムに到着した。途中海岸線に沿って一列横隊で次々に押し寄せる白波に夜光虫が乗り、きらきらと輝き、いつまでもいつまでも押し寄せてきた。今でも強烈な印象として残っている。


彼は最近、奥様と一緒にベルギーを訪ねたそうだが、昔の面影はなく、あまりの変化に驚いたということだった。

(2012-5-21)