吾日三省吾身
曽子曰:“
吾日三省吾身:
為人謀而不忠乎?
與朋友而不信乎?
伝不習乎? ”
曽子曰く、吾日に三たび吾が身を省る。
人の為に謀りて忠ならざるか?
朋友と交わりて信ならざるか?
習わざるを伝うるか?
Master Zeng saud, “ I reflect myself three times everyday.
In counseling men, haven’t I been sincerely faithful?
In associating with friends, haven’t I truthful to my words?
In transmitting something, haven’t been proficient? ”
何年か前に、時間を掛けて論語を学んだ。その時から好きな書物だ、その時のきっかけは、娘が、アメリカ人と結婚したことだ。彼女の夫には、発想の原点にキリスト教があって、夫婦の間に意見の𪗱齬が有る時、聖書にはそうは書いていないなど言うらしい。日本人はどうかと考えてみたが、聖書にようなものは日本には無いと感じた。ちょっと違うが、論語で、日本語と英語があれば、論語は日本人の心に至るところで影響を与えているから役立つかもしれないと思った。東洋的物の考えの元に論語があると思った訳だ。
今回の動機はちょっと違う。孫がシンガポールに住んでいる。両親は日本人だ。この孫は小学校1年生で、英語で教育を受けているが、中国語の授業もあるらしい。漢詩が出てくる。
春眠不覚暁とくる。じじの知っている漢詩と孫の知っている漢詩を並べて、声を出して唱ってみるが、かの国では1年生が漢詩を読み、日本じゃ○○○ではちょっと困ると思った。書店で子供向けの論語を見つけテキストし、もう一度論語の勉強を始めた。
また新しい発見がある。習は、親鳥が雛に教える意で、羽根の下が白い。今回は、忠・信・習がまた出てきた。
忠は心の中心で、臣が君子に二心ない意で、忠誠faithful,
信は人の心、真実、truthfulだ。
習わざるを伝うるか、日本語も難しいが、ここで伝えるのは熟練だ。
(2012-4-21Yoshi)