お寺が役所だったお話〜喜多町・広済寺〜
『お寺が役所だったお話〜喜多町・広済寺〜』
おはようございます。
雲が多めで明けました2024年2月17日㈯の小江戸川越です。
今日もラジオ川越「ちょっとディープな川越観光案内」をお聴きいただきまして、ありがとうございました。
そう言えば、小江戸川越観光協会さんから、本年の「小江戸川越春まつり」のリリースがされましたね。
さて、番組では小仙波町の光西寺さんのお話をしましたが、川越にはもう一ヶ寺同じ「読み」のお寺があります。
それが、かつての郡役所でもありました、喜多町の広済寺さん。
昔は川越市(町)の現在の川越市の市域は入間郡に、一部の郊外は高麗郡に所属していまたした。
少し調べてみますと、入間川と小畔川あたりから西側が高麗郡に所属していたようです。
小畔川左岸周辺の神社の灯籠には、当時の地名の他に高麗郡の文字も見受けられます。
「川越市合併中稿(川越市立中央図書館蔵)」によりますと、入間郡と高麗郡の役所は『川越町大字川越字北町』の広済寺さんの一部を、その郡役所として用いたとされています。
時は1879年(明治12年)4月1日との記載でした。
話を少し戻しますと、「こうさいじ」と申しますと、先の志多町(下町)の「広済寺」さんと、小仙波街町の「光西寺」さんが存在します。
今回は志多町ですよー!
昔から寺院が学校や役所代わりに使われている例は数多くありますが、ここまで身近な例がありますと驚きですね(^O^)
かつては川越県や入間県などの県庁所在地であり、郡都でもあった小江戸川越は、やはり県内の政治や経済の中心地であった事がうかがい知れますね。
また「大東百年史」などを紐解いてみますと、かつての名主さんのお宅がそのまま村役場などにもなっていたようです。
もしかしたら、お近くのお寺が何らかの役所だったと思うと、ちょっとわくわくしてきますo(^o^)o
かつて小さな村や町に分かれていた時代の地元を、ゆっくりと散策するのも楽しいかも知れませんね♪
特に札の辻から北側は、川越大火の難をのがれた地域でもあり、旭舎文庫の建物は江戸時代後期の建物とも言われています。
そんな古い川越を訪ねてみても楽しいかも知れませんね(^o^)
それでは本日も小江戸川越で、お楽しみ下さい\(^_^)/
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