先週、母の初盆が終わった。
父の遺影と母の遺影が並んでいた。
私がまだ知らないあの世というところに、二人は一緒にいるのだろうか。
今日はそこから帰ってきているのかな。
そんなことを思っていたからか、その日の夜、夢に母が出てきた。
母は奄美大島で生まれた。わりと裕福な家の長女として生まれて、夢は教師になることだったという。
実家には母が小さい時からの写真がたくさんある。
弟や妹たちと並んだ家族写真や、女学生時代の写真。
母が高校生の時に祖父が事業に失敗し家が貧困に陥り、母は大学へ行く事を断念したという。祖父から高校もいかなくていいと言われて学校の鞄も捨てられたらしいが、高校だけは卒業しておきたかったらしく捨てられた鞄を拾ってきて屋根裏へ隠し、学校に行く日はそっと屋根裏からだして家をでたと話していた。
高校をなんとか卒業した母は大学進学をあきらめて大阪へ一人で出て、奄美大島にいる家族を支えるために就職した。
大阪へ出る事は母の母、つまり私の祖母にしか伝えておらず、そっと家を出てきたのだという。祖父に話せばおそらく大反対されて大阪行きを阻止されることはわかっていたからだ。だが、貧困に陥っていた家族を支えるため、そしておそらく母の新しい夢を見つけるために母は大阪へどうしても出てきたかったのだと思う。
船に乗る日の朝、祖母は物音を立てないようにそっと裏の勝手口の扉を開けてそこから出ていく母を見送ってくれたのだそうだ。
生前、その光景を詳しくは語らなかったけれど、母は忘れることができないと私に話したことがあった。
奄美大島の名瀬港から大阪港までフェリーで約30時間ほどかかる。出航の時に多くの人が見送りに来る港から船が出るとき、そこに誰も見送ってくれる人がいない母はたった一人、遠くへ出発する船の上で何を思ったのだろう。
大阪へ来てからの母の写真もたくさんあった。私が生まれるもっと前からの写真。
そこには母が「母」になる前の笑顔の写真、凛とした若い女性の姿があった。
日本が活気づいていく時代と共に、小さな島で生まれた彼女の人生の旅も大きく広がっていったように見えた。
母は割と厳しい人で、私はよく叱られた。
兄の真似をすることが多く、男のようにふるまうのでいろいろ躾けられていたのだと思う。(笑)
教育熱心でもあり、私はやりたい習い事は割と何でもやらせてもらえた。時々遅くなってしまう時は、夜道を怖がる私を心配して自転車でいつも迎えに来てくれた。
そう思うともっと色々真剣にやって母の期待に応えられたらよかったのだけど。
母は私に教師になって欲しかったのだと思う。自分がかなえられなかった夢を私に託していたかもしれない。
残念ながらその期待には応えることはできなかったけれど。
そして、かなり自由奔放な私に母はイライラしていたのかもしれない。
よく喧嘩した。
海外へ移住すると決めた時は「あんたの行動力には驚かされるわ」と言っていたが、今思えば私の行動力は母から受け継いでいたともいえるのでは?と思うのだ。
小さい島から大阪へ出てきて、何もないところからスタートさせた母の若き時代は私と同じではないか?いやそれ以上のような気もする。
私は海外へ移住したとはいえ、母の時代とは違ってしょっちゅう大阪へ戻ってこれた。空の仕事ということもあったが(笑)
そう思えば、やはり母の方がすごいのではないか?なんて思う。
どちらにせよ、私は母の娘なのだと改めて思う。
私は海外へ移住したが、結構頻繁に仕事で大阪へ戻ってきていた。実家にも良く戻って一泊だけしてまたあっちへ帰るということも多かった。そして私が帰る時、母は「買い物行くから一緒にいくわ~」と言って駅までいつも見送ってくれた。
「ほなまた来月な」というと
「うん、気つけてな」と笑って見送ってくれた。
私が改札を通ったのを見届けてから母は自転車に乗って買い物へ行ってしまう。
でも実は知っていた。いつも線路沿いの道を走って私が乗っている電車を見ていた事。
電車が通りすぎるとき、母は一瞬自転車を止めて、電車を眺めていた。
私はそんな母の姿が遠くなるまでいつまでも見つめていた。
きっと私がこの人生の旅を終えるまでその母の姿は目に焼き付いているにちがいない。
いつもそうやって何度も私を見送ってくれていた母。
最後に私が母を見送ることができたのは、ずっとずっと見送ってくれた母へのせめてもの親孝行なのかな。
夢に出てきた母は泣いていた。
「もう行ってしまうん?」
そんなことをつぶやいていたような気がする。
私は泣きながら目を覚ました。
見送る方も行ってしまう方もいつも別れはさみしい。でもきっとまた会えるはずだから。
だから次はあの時のように笑ってくれてるといいな。


