出張帰り。京都の夜。

日中はやはり暑かったものの、帰り道の橋の上で立ち止まると風が気持ちよかった。確実に秋はやってきているのだが。

 

今日は台風がやってくる。

 

たまたま仕事も休みになったので、昨日から家に籠ってたまっている録画や見たい配信を見まくる。

ある意味ストレス解消だ。

 

その中でひとつ印象に残った映画があった。

 

「花まんま」

※ネタばれあり

 

鈴木亮平さんと有村架純さんが兄妹役で出ている映画だが、想像していた展開とは違って吸い込まれていった。

 

少し現実離れなスピリチュアル的なストーリーではあるものの、実際にあるのかもしれないと思うような話であった。

そして、二人の俳優さんだけでなく数多くの名脇役で繰り広げられるストーリーに引き込まれていって、何度か自然に涙が出た。

 

有村架純さんが演じる「妹」にある女性の魂が入り込むのだが(完全憑依とかそういうオカルト的なものではなく)、幼い彼女に突然その女性の記憶がよみがえる。その記憶をたどってその女性の家族へ会いにいくのだが。

 

魂というのはなにもの?

 

私にとってはそんな風に考えてしまう話だった。

 

人間という生き物は脳が死んで、心臓が止まって、そしてその肉体はいわゆる「おわり」をむかえる。

だが、「人」としての「魂」はどうなのだろう?

 

勝手に私は「人間」と表現するときは生物学的な「Human」であり、「人」と表現するときは個々をあわらす「Person」という

表現と感じてしまうのだが。人間に魂がやどり「一人の人」となるのか。

 

魂というものが存在するのであれば、人の魂は人間の体が終わりをむかえた時、どこへいくのだろう。

 

私の魂は今、「わたし」なのだけど、ひょっとしたら映画のストーリーのように誰かの「魂」として生きていたこともあるのだろうか。

 

映画の中での台詞で「私は私よ」というのがある。

当たり前なのだけど、私が「わたし」として生きることができるのは今回だけなのだと思うと、ちゃんと生きなければと思わされる台詞だった。

 

映画のようなセンセーショナルなことではないが、私も少し似たようなことを言葉にしたことがある。もしかしたら誰もがある経験かもしれないのだが。

 

子供の時、5歳ぐらいだったと思うけど。

父に「わたしが生まれてきてよかったん?私は生まれてくる子じゃなかったん?」と聞いたことがあった。

その記憶は今も朧気にある。

父はすごく驚いた顔をして「お父さんらは〇〇が生まれてくるのん待っててんで」と答えてくれた。

 

なぜそんなことを聞いたのかはわからない。でも父が驚いた顔も記憶にある。

 

 

大人になって、それこそもうだいぶ大人になってから(笑)

私は母からあることを打ち明けられた。

 

私と兄の間にはもう一人子供がいるはずだった。

 

だが、その子供はこの世には誕生しなかった。

 

私はなぜか直感で私にはやはり「もう一人の兄」がいたんだとその時思った。なぜ「兄」なのかわからないけど、勝手にその生まれてくるはずの「もう一人」は男だった気がする。

そして、「やはり」と思った理由はなんだか時々二倍の人生を生きてるような気になることがあったからだ。

まぁ、それは私の勝手な思い込みなのだろうけど。(笑)

映画のように「魂」がそれぞれあるのだとすれば、私は生まれるはずだったもう一人の兄の魂も受け継いできたのかもしれない、なんてね。

 

自分の愛する人や大切な人が亡くなると悲しい。その悲しみを癒すために「魂」という存在を人が作り上げたのかもしれないけれど、私はやはり「人」には魂がやどり、その人としての人生が終わったあと、その魂はまたどこかで受け継がれていくのではないかと考えてしまう。

そう思うことで人間は「人」として最後まで生きていけるのかもしれない。

映画の最後は、「花まんま」を渡された父親とその家族はそんな「魂」の存在を信じることでその後も生きていけると描かれたのではないだろうか。

 

もし本当に私は生まれてくるはずだったもう一人の「兄」の魂も受け継いで、今の私を生きているのであれば、私に起こる全てのことに、そしてまだまだ続く「わたし」としての人生に「丁寧に」向き合って生きたいと思う。

 

 

父と母の魂は今どこにあるのだろう。父や母の魂もどこかへ受け継がれていくのだろうか。

「花まんま」のように父と母が残してくれた小さなサインはいつかどこかで私の目の前に現れることもあるのかな。