本をどう読むか(岸見一郎)ポプラ新書

 

「嫌われる勇気」の著者であり、哲学者である岸見一郎の読書論。本好きにとっては、読書論こそ究極の本と考えている私にとって、見逃せない一冊である。

 

(本の内容の紹介)

本を読むことは、広い意味で生きることであり、本を読むことと生きることは、切り離すことができない。

 

自分は一人ではない、という感覚を本を読むときに感じられたら、その感覚は苦しい人生を送っている人にとっては救いになる。

 

大切なことは、読書を通じて、自分のそれまで持っていた考えや生き方を振り返って吟味し、さらには自分の生き方を見直すことである。

 

本を読むことの目的は、端的に言えば幸せである。本を読んでいるときに幸せを感じられなければ、読書の仕方を見直す必要がある。

 

相手を理解するためには、「もし自分だったら」と考えるのではなく、「もしも自分がこの人だったら」と可能な限り相手の立場に身をおいて考えることが必要である。このような意味での共感は、本を読むときにも必要である。

 

言葉尻を捉えるのではなく、著者はどう考え、このような結論に達したのかを読んでいかなければならない。古いと切り捨ててしまうと、大抵の古典と言われるような本は読めないことになる。

 

著者と対話することで、その著者から自分一人では思いもつかなかったかもしれないことを教えられるのは、読書の醍醐味の一つである。

 

仕事をやめ、身体の自由がきかなくなっても、本を読めさえすれば老年は怖いものではない。

 

次から次へと新しい本を読むのもいいが、繰り返し読む本があれば、次に何を読もうかと迷ったときでも、そのような本が手近にあれば、迷うことなく読むことができる。

 

とにかく、どんどん読む。つまらなければ途中でやめる。それを繰り返していけば、自分で本を選ぶ力が養われる。

外国語でも速読がよいという人もいるが、ゆっくり読まないと力はつかない。著者が時間をかけて書いたものを速く読んでも、あまり意味がないように思う。

 

自分で翻訳をする人は多くはないだろうが、翻訳は、時間をかけて原文を読む究極の遅読、熟読だと言える。

今はもう試験を受ける必要がないのであれば、本を読むことでも外国語を学ぶことでも、誰かと競争する必要はないのであるから、楽しんで行えばよい。

 

同じ本を異なる翻訳で読んでみると、同じ本とは思えないことがある。翻訳は訳した人の解釈なので、ただ言葉や文体が違うというに止まらず、違った意味に訳されているからである。そういうことが分かると、原文で読んでみたいと思うようになるだろう。

 

本を一度読んだら決してその内容を忘れないという友人がいた。どうしてそうなのか尋ねたら、誰かの話を聞いたときに忘れないのと同じだという答えが返ってきた。相手に関心をもって話を聞いていたら、相手が何を話したかということを忘れるはずがない、というのである。本を読む時も同様に、関心をもって読めば、その内容を忘れることはない、という訳である。

 

たくさんの本を読もうとしないこと。また何かのために本を読むのではなくて、本を読むこと自体を楽しむこと。

 

(感想)

本を読むのは、楽しい。それに尽きる。多読よりも、一度読んだ本を再読、三読するのが良いという著者の指摘は同感である。