(2012-03-13 19:34:35 の記事)

麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を
広末晃敏個人総括文 から、抜粋してご紹介します。
※アレフ脱会前の2003年頃の出来事です。

広末晃敏プロフィール (二番目)

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●上祐改革の突然のストップ
 (2003年)
 
ところが、それからわずか3カ月ほどの2003年6月、上祐は定期的に集中修行に入るようになり、
同年10月には無期限の完全な修行入りとなって、一般信者から隔離されるようになりました。
一般信者に対しては「疲れがたまっているので回復のための修行」と説明されていました。
それにともない、上祐主導の改革はストップし、
教団は麻原個人崇拝カラーをどんどん強めていきました。つまり、昔に回帰していったのです。
会合の場で、いったんは皆で一致して改革に賛成したにもかかわらずです。

そして、上祐批判が始まりました。つまり

「上祐の改革は間違っていた」
「グルを犠牲にして"国民への愛"を説くのは間違いだった」
「上祐は魔境であった」
「"グル外し"をしておかしくなってしまった」
「上祐の言うことを聞いてはならない」

等と主張する「お話会」という名称の会合が、2003年後半から、
一部信者らによって繰り返し開かれるようになったのです。
この「お話会」は、建前上は教団非公式のものでしたが、
実質的には、大部分の信者が参加して話を聞くように求められました。
要するに、教団公式会合のようなものでした。

私は、この「お話会」には疑問を感じました。
もちろん、もともと上祐の改革に賛同していたからですが、
それ以外にも、お話会のやり方自体にも問題があると思ったのです。
なぜなら、お話会の内容のメインは、上祐に対する猛烈な批判なのですが、
当の上祐は修行に入れられ、信者から隔離され、
何の発言権、抗弁権も与えられていなかったからです。

つまり、法務部の私からすれば、まるで「欠席裁判」のように見えたのです。
このような欠席裁判で、一方的な批判を上祐に浴びせ続けるのはフェアではなく、
教団をまたいたずらに社会と対立させる方向に持っていくのも、
大変問題だと感じたのでした。

そこで、私は、こうした形での上祐批判は問題だという趣旨の発言を、
教団の中で繰り返したのでした。

●改革ストップの背後に松本家の存在 (2004年)

すると、このような上祐改革支持の私の発言が、たちまち松本家へ伝えられたようで、
松本家サイドから、私に牽制がかかり始めました。

松本家に近い複数の幹部から、

「私の発言を松本家が悲しんでいる、上祐は魔境でおかしいのだ

等と言われ、中には相当きつい表現で私を批判してくる幹部もいました。
それは2004年になってからのことでした。

このことから、上祐排撃の背後に松本家の存在があることが明確になりました
(このあたりの詳細については、この後アレフ代表に就任する野田成人による
『革命か戦争か―オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』〈サイゾー刊〉にも記されています)。

また、上祐改革の一環として、麻原の説法集『ファイナルスピーチ』を
 
一部改変したことは先ほど述べたとおりですが、
この改変作業について、松本家に近いある信者が

「説法を勝手に修正して、松本家の皆さんが悲しんでいる」

と述べて、批判してきたこともありました。

2004年は、こうした感じで
「反上祐で松本家支持」という風潮が、教団内で圧倒的かつ支配的でした。
そんな中を、私をはじめとするごく少数の上祐支持の信者が、
細々と発言を続けているという状況でした。

というのも、教団では、松本家の人々は、きわめて高い地位を与えられていましたから、
無理もありません。
麻原は、1996年の破防法手続の際に、教祖の地位を降りましたが、
その際に第二代教祖として指名したのが、松本家の長男と次男でした。

また、それ以外の長女から四女についても、
「全てのステージの上に置く」と規定していましたから、
正大師というステージにあった上祐よりも、
松本家の人々は、はるかに教団内の地位が高かったのです。

松本家の人々は、麻原が絶対視・神格化されていた状況の中では、
ほとんど神に準じるような扱いを受けてきた
のであり、
その前では教団代表の上祐も吹き飛んでしまうような権威がありました。

ですから、上祐主導の改革を批判し、上祐を封じ込めることは、
松本家にとってみれば易しいことで、
だからこそ大部分の信者は、
急きょ手のひらを返して上祐の改革に反対し、松本家に賛同したのです。

グルである麻原の意思に沿うことが最も価値あるとされていた教団の中では、
上祐よりも地位が高いと麻原自身が定めた松本家の人々に従わないということは、
すなわち麻原への反逆を意味することになる
のです。

そういう意味では、私が麻原へ"反逆"し出したのは、
この時期からということになるのかもしれません。

●上祐派(代表派)を旗揚げする

私は松本家サイドの言うことには納得できず、度重なる説得を受けましたが、
応じませんでした。


「上祐の言うことを聞くことはグルの意思に反することになる」
「グルへの裏切りになる」
そういう意味の忠告を受けたことも何度かあります。

ですが、私にとっては、松本家の言うことに従うよりも、つまりグルの意思に従うよりも、
自分自身の良心に従いたいという気持ちが強まっていました。

グルの意思を主張する人たちは、
この教団と社会との対立を解決するための方法を持ち合わせていない、
社会の人たちの苦しみや教団への反感、
そしてそこから生じている教団信者や元信者の苦しみも解決しようとしていない、
ただ単にグルにすがれば、ひたすらグルの救済を待てばよいという消極的な考えだけだ、
これが本当の仏の道であろうか、本当に人々のためになる道なのだろうか
――という私の心の中の叫びが、いわゆる「グルの意思」に反逆する道を選ばせたのです。

そういうと何だか格好良く聞こえますが、
それも、上祐が先鞭を付けていたからこそ、私にできたことなのかもしれません。

そ う思っていたときに、上祐と会う機会が訪れました。2004年当時は、上祐は、一般信者との接触を禁じられ、自室で修行をさせられていました。あるとき、 警察か公安調査庁が、強制捜査か立入検査のために上祐の部屋に入った際、私は立会人として上祐の部屋に入り込み、立ち会いました。当局が引き揚げた後、私 は上祐と二人だけになるチャンスがあったので、すかさず、上祐や改革について教団でいろいろ批判されていることをどう思うか、尋ねてみたのです。
私は、てっきり上祐から、いろいろな反論があるものと予想していました。しかし、意に反して、上祐の答えは「何が正しいか正しくないか、あれかこれかという論争を超えたところに、真実はある」というものでした。
私はそれを聞いて、ハッとし、その吹っ切れた様を見て、少なくとも上祐を批判している人たちが言っているような魔境状態だとは上祐のことを思えませんでした。むしろ、批判している人たちとは次元の違った境地に至っているように見えました。

 それを機に、上祐と連絡をとり始めました。ちょうどその時期、上祐が原告になっている民事裁判があったので、その打ち合わせのためという口実で接触する機会を持てたということも奏功しました。
  私は、上祐と話を重ねた結果、かつての改革は、社会との調和を重視するという観点から基本的には間違ってはいないという確信を深めました。そこで、それま でに同調していた数少ない仲間と一緒に、私を含むたった4名で、上祐支持をアピールする会合を公然と本部施設で開いたのです。2004年11月末のことで す。そこで、上祐改革の正当性について訴えました。

その会合には、上祐を批判する人たちも大勢訪れ、かなりの論戦となりました。
それをきっかけとして、上祐を支持する人たちが徐々に集まり始め、
「代表派」を名乗るようになりました。
実権を奪われていたとはいえ、一応は上祐が教団の代表だったからです。

これが「代表派」の旗揚げとなりました
(なお、これ以降は、文意をわかりやすくするため、「代表派」のことを「上祐派」と記します)。

その一方、上祐を批判していた多くの人たちも、さらなる結束を固めていきました。
この人たちは当初、麻原の意思を正統に受け継ぐ者たちという意味で「正統派」を自称しましたが、
その後、そもそもこれは派閥争いではない、
上祐派は派閥などではない、単なる魔境の集団である
というスタンスに立って、自らを派閥とする呼称はやめたようです。

ただし、私たちは便宜上、「代表(上祐)派に反対する人たち」という意味で「反代表派」と呼んでいました
(以下の文中では「反代表派」のことを「反上祐派」と記します)

●上祐派と反上祐派の衝突の激化

こうして上祐派が旗揚げされたことで、2005年になると、反上祐派(こちらの方が圧倒的多数でしたが)は、
上祐派の封じ込めのための活動を盛んにしていきました。

反上祐派は、再び「お話会」という会合を繰り返し開いて、
上祐改革への反省のないまま上祐が活動を再開するのは許せない」
と主張をしました。

反上祐派のスタンスは、麻原を表に出さず仏教の空を追求するという上祐の改革は、
信者を麻原から引き離すものだったから反省すべきである、というものでした。
 
そして2005年5月、上祐が、長野県の戸隠神社一帯で修行をしたことを突き止めた反上祐派は、

「神社で修行するのは、やはり魔境である証拠」

として、上祐を激しく批判しました。

それも、数十名以上が集まる幹部会合の場で、上祐不在の場所で、
上祐への問い合わせを事前にすることなく、いきなり発表して、批判しました。
これも欠席裁判のようなものでした。

従来の麻原や教団の考えでは、
麻原が許可を出した場所や教団施設は聖なる場所だが、
そうではない一般の神社・仏閣は、エネルギー状態の悪い魔境エリアだとされてきました。
そのような神社で修行をする上祐も、当然に魔境だとされたわけです。

私たちは、神道はともかく仏教には親しみを感じてきた信者らに配慮し、

「神社といっても、もともとは観音信仰の寺院があった場所であり、
つまりオウム・アレフで親しんできた仏教と縁の深い場所である」と説明しました。

しかし、

「とにかく一般の神社・仏閣は全部ダメ」

ということで、全く受けいれられませんでした。
自分たち以外の教団を全面否定するというカルトの典型的な特徴が明確にあらわれていました。
こうして、上祐批判がいっそう激しく展開されるようになりました。