(2012-03-12 19:10:52 の記事)

麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を、
細川美香の個人総括文 から、抜粋してご紹介します。
※アレフ脱会前の2003年頃の出来事です。

細川美香プロフィール (三番目)

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●上祐代表の改革の頓挫と、松本家の人たちへの失望2003年)

2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないか
ということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、というものでした。

この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、
徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することになりました。
そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。
2003年の6月の下旬のことです。

その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。
ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、
法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。

その電話に出てみると、聞き慣れない声で、「お姉さん、誰だかわかる?」と言われました。
初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。
そして、沈黙何十秒後に、「もしかして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、
「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、
「そんなの無理ないですよ、7年以上話をしていないわけですから」と言いました。

アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。
彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。

その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、

お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。
このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い
」と言われました。

れは、脅しと同じような感じでした。
その後
シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい

という話になり、

上祐代表を修行に入れ たい

と言うに話になりました。
そして、
そのために協力して欲しいことがある

ということでした。
できれば、直接会って話をしたいということでしたので、指定された場所に向かいました。

その時、一緒にいた仲間は、同じころ二宮さんから電話をもらっており、
お互いに話の内容については触れず、これから何が起こるのかな、
という思いを抱きつつ、一緒に電車に乗ったのです。

駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。
なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化出来事がありましたが、
それについても悩んでいる時期でもあり、
アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。

「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、
緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。

●松本家の人々に再会する

そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。
彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。
駅の改札を出て、あまり人目につかないところで、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。
 
その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。

彼女の話は、私が腑に落ちない点がいくつかあったのですが、
ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。

幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと
思った彼女は、
「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、
「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。

再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。
そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、
麻原の奥さんである、知子さん(現松本明香里)がいた
のです。
そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。

私たちは久し振りの再会に、多少の世間話や、昔話をしました。
その後、現状の話を少しされました。
そして、まだ、今から人がここに来るから、呼ぶまで、違う部屋で待機しているように言われました。

違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。
彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。
呼ばれるまで、カラオケを歌ったり、話しをしていました。

しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、
行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。
そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、

今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。
 この場所に集まった人達同士でも話をしないように。
 上祐代表にも、もちろん言わないように
」と、きつく言われたのです。
 
さらに、
せっかくだから、長男、次男に対して、
 お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう
と言われました。

私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、
「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。

話し合いが終わった時間は、深夜になっていましたので、
カラオケボックスで始発が来るまで待ちました。

その間、もう一人の仲間と、「どうしよう、大変なことになったね」と、
お互いに言い、今は気分を変えるしかない、ということになり、
時間になるまでカラオケを歌い、なんとか自分の気持ちを紛らわしたのです。

●上祐代表にも呼ばれる

しかし、そこで待っている間に、上祐代表の秘書から電話が入ってきたのです。
緊張しながら電話にでたところ、明日の朝7時から東京道場で代表がミーティングをしたい、
と言っているが、来れるか、ということでした。

私は、「大丈夫です」と、返事をしたものの、
「どうしよう、明日、上祐代表に会わないといけない。
でも、今日の出来事を気付かれてはいけないから。困ったな」と思っていたのです。

そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、
昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした。

ミーティングを進めているうちに、昨日ミーティングに参加した師の人たちを乗せた車が、
東名高速で事故を起こしたという知らせが入ってきました。

私は即座に、「昨日の人たちだ。やっぱり、あの出来事は、良くなかったんだ」と思い、
ますます、どうして良いかわからず、考え込んでしまいました。

なんとかその場をやり過ごし、船橋道場に戻りました。
しかし、昨日の出来事が、そして、事故のことが頭をぐるぐる周り、ワークどころではありませんでした。
そんな中でも、上祐代表が出した指示に反発するかのように、違う指示が回ってくるのです。
私は頭が混乱し、苦しみもピークに達していました。

もう、こんな状態では、ワークもできない。そして、正大師同士で争っている。
こんな教団で今後、続けていくこともできないと思い、出家して以来、初めて教団を出ることを考えました。

そんな状況に陥っているとき、先に麻原の三女に会ったある師の人から、
私の様子がおかしいことを聞いた上祐代表が、心配して電話をしてきたのです。

だからと言って、本当のことを話をすることはできませんから、
最初は聞かれたことに対して、お話しできません、と答えました。

しかし、代表は「もう、知っているから、話をしなさい」と言いましたので、
私は、泣きながら、
「もう、こんな教団ではやっていくことはできません。代表に対しても疑念があります。」と叫びました。
 

それに対して代表は、話を聞くから、すぐに烏山に来るように言われたので、準備をし、私は烏山に行きました。
烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。
そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。

そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。
そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、
出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。

三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、
次に、
三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、
「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「
そうです」と答えました。

●混乱する教団の中で麻原や事件のことを考える
 
この2003年の6月の後、10月に至って、上祐代表は、完全に修行に籠もる、
すなわち、教団の活動から離れることになりました(離されました)。

そして、教団は混乱をきわめていました。
反上祐派と言われる人たちが、いろんなところで、「上祐代表の改革は失敗だった」
という話をするための「お話会」と呼ばれる会合が続けられていました。

私も一度、誘われたので、参加して話を聞いてみました。
話の内容は、上祐代表がおかしくなっていく過程、それに伴い、おかしな出来事が起きた、という話しの展開でした。

しかし、私がその話を聞いて思ったことは、話の内容はこじつけが多く、
無理な論理展開をしており、私には納得できない事が多くありました。
疑問に感じたこと、納得できないことを、お話会が終わった後に、いくつか質問をしました。
当然、明確な回答はもらえませんでした。

こんなお話会に出ても仕方ないな、と思い、今度誘われた時は、断ろうと思いました。
そんな心配をしなくても、その後は、一度も、お話会には誘われませんでした。

その一方で、私は、2003年の終わりから2004年の初冬にかけて、
麻原のこと、そして、自分の今後の信仰形態、教団のあり方について、深く考えるようになっていきました。