(2012-03-09 23:40:47 の記事)
麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)より掲載します。
■松本家の反対で、教団改革が停止される (2003年後半)
私は、こうした教団改革 を進めようとしましたが、麻原に対する信仰などを背景として、
それに反対する人たちがいました。
その結果として、最終的には、いわゆる代表派(上祐派)と非代表派(反上祐派)に分裂することになります。
とはいえ、当時の教団の状態は、かなり複雑であり、個人のプライバシーに関わる問題もありますので、
全てを網羅的に説明することは難しいと思いますが、
一 言でいえば、麻原への信仰と、それに基づいた麻原の家族によって、
私の進めようとした教団の改革は、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めました。
教団改革を止めようとする麻原の家族の中心は、麻原の妻や次女や三女ですが、
この辺の動きは、現在も、アーレフの代表である野田成人代表が、月刊現代の 2008年01月01日号
で、
麻原の家族が、私の知らないところで彼に連絡をし、私を教団運営から外すために協力を求められたという、
裏側の事情などにつ いて、詳しく語っていますが、彼の報告は、
それが、私が直接関わっている部分に限っては、おおよそ事実のとおりです。
その結果、野田氏が報告しているとおり、松本家と、松本家の要求を受けた、
正悟師と呼ばれる他の教団の最高幹部の意見の結果として、2003年の6月頃から、
私は、教団運営を離れて、いわゆる籠もった形の修行に入らざるを得ない状況となりました。
7月には、松本家の要求のために、私は、私の進めようとした改革が、間違っていた
という主旨の発言を、幹部信者を集めた会合で話さざるを得ない状況となりました。
そして、10月の末からは、私は、一切の教団運営から退き、信者の前から姿を消す形になりました。
これは、私の本意では全くありませんでしたが、松本家が、教団活動の中で表立った行動ができないために、
代表である私が、彼らに替わって、そうせざるを得 なかったという事情によるものです。
すなわち、改革が停止となっても、それからしばらくは、多くの人たちに対して、松本家の関与は、隠されていました。
今から振り返るならば、この時点で、私が、強い意思を持って、自分の考えを貫いて、
教団運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、自分の道を歩めばよかったと思います。
しかし、その当時の私は、前とは徐々に質が変わり始めていたとはいえ、依然として、
麻原の信仰と麻原に対する依存を続けており、麻原を絶対とし、その家族を高い地位に置く、
その教団での考え方から脱却できておらず、
実際の松本家の言動には、納得がいかなかったものの、自分の意志を貫くことは出来ませんでし た。
特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、分裂に至るという問題がありました。
これは、実際に、松本家の人たちが、はっきりと私に警告していたことですから、
当時の私としては、大きな圧力になりました。
しかし、こうしていったんは、松本家や反上祐派に従っても、
その後、時間が経てば経つほど、彼らの信仰・思想や教団運営のあり方に対する疑問は、増大していって、
結局は、2004年末には、上祐派を形成して、2007年に、教団を脱会し、新団体を設立するに至ります。
その意味で、この2003年から、脱会に至る2007年までの間が、
私にとって、麻原とその家族に対する精神的な依存を完全に払拭するために必要な期間だったと思います。
■反代表派の中の大きな変化が始まる (2006年始め~夏まで)
さて、3月には、もう一つ別の大きな変化がありました。
それは、村岡達子氏や村松孝子氏といった反代表派の幹部が、
反代表派を離脱して中間派に転じるという事態でした。
これによって、反代表派は、中堅の幹部(師)においては、多数であるものの、
最高幹部(正悟師)については、二宮氏1人だけとなりました。
逆に言えば、野田成人氏、杉浦実氏、杉浦茂氏、村岡達子氏の4人は、
その後は、教団の中で、中間派と位置づけられることになっていきます。
そして、転向した 村岡氏らは、反代表派から裏切り者扱いを受けることになり、
反上祐派が支配している主だった教団活動からは、実質上、排除される結果になります。
さて、村岡氏等が離脱した背景には、その後、表面化していく、麻原の家族の中での意見の対立がありました。
それは、麻原の四女(識華氏)と、三女(麗華氏)や母親の知子氏の間の対立であり、
当時17歳の識華氏は、社会への融和を重視する考えを持っており、
反上祐派の考えを持つ三女や母親の行動に反発して、松本家を出て、
村岡氏らと個人的に接触したところ、村岡氏らも、それに共鳴して、反上祐派を離脱したというこ とです。
すなわち、教団の中で反上祐派が分裂を始めたわけですが、
その背景として、松本家の中でも分裂が始まったということです。
そして、私は、この反上祐派と中間派、そして、麻原の家族の中の分裂は、
私が脱会した後のアーレフにおいて、今後も大きな影響を与えるのではないかと考えています。
■教団と松本家の関係について
なお、この頃、私は、会議において、教団による松本家に対する多額の援助
(松本知子氏の描いた宗教画に対する使用料の支払い)については、
現在の状況を考えると、社会の理解を得られず、問題になるだろうと考えました。
そこで、反代表派に対して、繰り返してその取りやめ、ないしは、
経済的な理由によって取りやめることが出来ない場合には、
松本家からのその事情の説明を受けるように求めましたが、
麻原とその家族に対する帰依を背景として、反代表派の理解は得られませんでした。
しかし、7月には、警視庁が、松本家および周辺関係者を強制捜査する事態が発生し、
それに伴う報道において、反代表派の教団から松本家に多額のお金が流れていることが
公に報道されて、批判される事態となりました。
その中で、松本家への絵画使用料の支払いの問題も批判されたので、今後は、私だけではなく、
中間派の野田氏や村岡氏が、反代表派の執行部に再考を求めましたが、
それも受け入れられることはなく、依然として、彼らは、松本家への支払いを続けている状態にあります。
そうしている内に、8月になると、松本家から家出をしていた四女の識華氏が、
麻原から正式に自立するために、江川紹子氏を後見人とするための裁判を提起 し、その中で、
「家族は教団と関係ないと嘘をついて、教団を支配しており、信者に貢がせて贅沢な生活をしている」等と述べ、
事態は悪化して続けています。
しかしながら、反代表派は、識華氏についても私と同様に、信者に対して、魔境等と位置づけて説明しており、
このような状況が変わるには、今しばらく時間がかかるのではないかと思います。
麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)
■松本家の反対で、教団改革が停止される (2003年後半)
私は、こうした教団改革 を進めようとしましたが、
それに反対する人たちがいました。
その結果として、最終的には、いわゆる代表派(上祐派)
とはいえ、当時の教団の状態は、かなり複雑であり、
全てを網羅的に説明することは難しいと思いますが、
一 言でいえば、麻原への信仰と、それに基づいた麻原の家族によって
私の進めようとした教団の改革は、
教団改革を止めようとする麻原の家族の中心は、
この辺の動きは、現在も、アーレフの代表である野田成人代表が、
麻原の家族が、私の知らないところで彼に連絡をし、
裏側の事情などにつ いて、詳しく語っていますが、彼の報告は、
それが、私が直接関わっている部分に限っては、
その結果、野田氏が報告しているとおり、松本家と、
正悟師と呼ばれる他の教団の最高幹部の意見の結果として、
私は、教団運営を離れて、
7月には、松本家の要求のために、私は、
という主旨の発言を、
そして、10月の末からは、私は、一切の教団運営から退き、
これは、私の本意では全くありませんでしたが、松本家が、
代表である私が、彼らに替わって、そうせざるを得 なかったという事情によるものです。
すなわち、改革が停止となっても、それからしばらくは、
今から振り返るならば、この時点で、私が、強い意思を持って、
教団運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、
しかし、その当時の私は、
麻原の信仰と麻原に対する依存を続けており、麻原を絶対とし、
その教団での考え方から脱却できておらず、
実際の松本家の言動には、納得がいかなかったものの、
特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、
これは、実際に、松本家の人たちが、
当時の私としては、大きな圧力になりました。
しかし、こうしていったんは、松本家や反上祐派に従っても、
その後、時間が経てば経つほど、彼らの信仰・
結局は、2004年末には、上祐派を形成して、2007年に、
その意味で、この2003年から、
私にとって、
■反代表派の中の大きな変化が始まる (2006年始め~夏まで)
さて、3月には、もう一つ別の大きな変化がありました。
それは、村岡達子氏や村松孝子氏といった反代表派の幹部が、
反代表派を離脱して中間派に転じるという事態でした。
これによって、反代表派は、中堅の幹部(師)においては、
最高幹部(正悟師)については、二宮氏1人だけとなりました。
逆に言えば、野田成人氏、杉浦実氏、杉浦茂氏、
その後は、教団の中で、
そして、転向した 村岡氏らは、反代表派から裏切り者扱いを受けることになり、
反上祐派が支配している主だった教団活動からは、実質上、
さて、村岡氏等が離脱した背景には、その後、表面化していく、
それは、麻原の四女(識華氏)と、三女(麗華氏)
当時17歳の識華氏は、
反上祐派の考えを持つ三女や母親の行動に反発して、
村岡氏らと個人的に接触したところ、村岡氏らも、
すなわち、教団の中で反上祐派が分裂を始めたわけですが、
その背景として、松本家の中でも分裂が始まったということです。
そして、私は、この反上祐派と中間派、そして、
私が脱会した後のアーレフにおいて、
■教団と松本家の関係について
なお、この頃、私は、会議において、
(松本知子氏の描いた宗教画に対する使用料の支払い)
現在の状況を考えると、社会の理解を得られず、
そこで、反代表派に対して、繰り返してその取りやめ、ないしは、
経済的な理由によって取りやめることが出来ない場合には、
松本家からのその事情の説明を受けるように求めましたが、
麻原とその家族に対する帰依を背景として、
しかし、7月には、警視庁が、
それに伴う報道において、
公に報道されて、批判される事態となりました。
その中で、
中間派の野田氏や村岡氏が、反代表派の執行部に再考を求めました
それも受け入れられることはなく、依然として、彼らは、
そうしている内に、8月になると、
麻原から正式に自立するために、
「家族は教団と関係ないと嘘をついて、教団を支配しており、
事態は悪化して続けています。
しかしながら、反代表派は、識華氏についても私と同様に、
このような状況が変わるには、