(2012-03-08 22:40:05 の記事)

昨年、2011年の6月に、村岡達子氏がアレフを脱会していたことを、8月に出た週刊誌で知りました。

 脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」
 (週刊新潮 2011年8月11・18日号)

との見出しの記事でした。

村岡達子氏(61) は、アレフの中の位階制度では、「正悟師」という
教団に数人ほどしかいない最高幹部の立場にあり、アレフの会長職を勤めていた人物です。

この見出しにあるとおり、村岡氏は、2007年にわたしたちがアレフを脱会するまでは、
麻原の家族の側に立って、上祐側のわたしたちと対立していましたので、
当然のことながら、麻原家族の、アレフ教団裏支配の実態をよく知る人物です。

しかし、心境の変化があったのか、半年以上前に、脱会していたようです。

前述の週刊誌にも、以下のように経緯が書かれていました。

  「6月6日付けで退会届を出しました。退会時の肩書きはありません。」

  「3年ぐらい前から、私は信者でありながら全く教団に関わっていない状態でした。
   追い出されるような形で(中略)教団所有のアパートに住んでいたのです。
   教団から私は“おかしい人”と思われていたんです」


上祐代表は、アレフ時代の2003年に、麻原を目立たなくする教団改革 を始めたのですが、
それに猛反発した
麻原の妻の松本明香里(旧知子)や三女の麗華(アーチャリー)が、
アレフの構成員でないにもかかわらず、教団を裏から支配するようになっていった のです。

村岡氏は、記事の中で、以下のように述べています。

  「上祐さんが、“尊師のことを全面に出さないように”と、
   在家・出家の両方の信者を集めて呼びかける一方、
   三女は“上祐のことを放置しすぎた”と後悔していました。
   麻原一族は上祐さんに危機感を募らせ、実力で抑えにかかったのです」


その後、上祐代表は、修行と言う名目で実質、教団運営から外される形となり、
監視役もつけられたある意味幽閉状態のような状況になりました。
その当時の村岡氏は、麻原家族とともに、反上祐の姿勢を強め、上祐排斥の活動を精力的に行っていました。
その後、2004年に、上祐代表は、麻原家族の意向と反する形で、独自の活動を始めた ため、
教団は、「上祐派」と「主流派(麻原家族派・反上祐派)」が対立を強めることとなりました。


 村岡氏は、記事の中で以下のように述べています。

  「そこからはもう、陣取り合戦みたいになって。
   尊師の奥さんは、”上祐は教団を乗っ取ろうとしている”
   と親しい信者たちにメールを送り付けていました。
   実際、仙台や船橋といった道場が上祐派に押さえられましたが、
   アーチャリー派も強かった。
   何しろ経理やメディアを握っていましたから」

 
その後、2006年になって、麻原四女が茨木県龍ケ崎市の家から出てきた後のことを、
村岡氏は記事中で以下のように述べています。

  「ある日、突然連絡があって”三女が長男に暴力をふるっている”と彼女が言うのです。
   それで相談に乗っているうちに彼女と通じるものがあると気がついたんです。(中略)
   上祐さんとアーチャリーの泥沼の抗争を収めるためには、
   2人(※妻と三女)より霊性の高い四女に教団に入ってもらうしかない。私はそう思ったのです」

 
しかし、その後、四女の影響力が大きくなってきたことを警戒した麻原の妻の松本明香里(旧知子)と三女の麗華は
四女を支持する村岡氏を、上祐代表や野田氏のように今度は教団運営から実質上外したため、
村岡氏は、昨年まで数年の間、教団の中で居場所のない状態が続いていたとのことでした。

このように、麻原の家族は、自分たちに従わない者を次々と外してくといった、
独裁体制のような運営を続けているため、現在のアレフの幹部は、
麻原の家族に従う者たちで構成されていると考えられます。

村岡氏は記事中で以下のように述べています。

 「尊師の奥さんが電話をかけてきて、”彼女(四女)の言うこと信じるの!?”と詰め寄られたこともありました」

以上のように、
麻原家族による、教団裏支配の状況は、多くの人が証言しています。