姓名判断やその結果に対する先生方の意見の相違。 | ALECA 小濱白光の素敵な陽だまり

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依美澄卑親呼は宝物の名。小濱白光は進化した名。しかし、どちらにも許しと道があった。

それぞれの道と意味を、私はいま味わっています。

皆様こんにちは。 関東は今日も快晴。 冷たい風が吹いています。


いつも読んでくださって、感謝しています。 皆様の、何かお役に立っていますでしょうか。



先日、「姓名判断といっても、言葉にも数字を乗せて、真理を追求したいと思っているのだから、

姓名判断だけをしている訳ではないのだから、数命学とでも言ったらいいかしら」と、

パソコンで引いてみたら、いっぱいいっぱいあって、そちらの方にびっくりしました。


先生同士のブログや、そこに参加した崇拝者達の意見のぶつけ合いに、二度びっくり。


まあ、わたしとしては、どちらでもいいような内容だと、思いましたが、

あれが「炎上」なのか、と、思いました。


いずれにしても、物事がちゃんと解決しないのなら、何の意味もない事ですし、

意見によっては賛成できないものもありました。


多くの先生は数命学といいつつ、姓名判断だけだったり、もしくは判断の根拠が不正確で

因果関係の解明には役立たないのではと思うものもありました。


我田引水するのではありません。


私はケンカするより、精度をましてほしいと思う者です。



それに、基本的には、縁の無い者は縁の無い所には行かない(行けない?)ので、

ケンカする意味はありません。


運の無い人は運の無い先生の所に行くのです。 だから救われない。

これが道理です。


神はそんなに甘くない。 救ってはいけない者まで、救う因果は、無いと言えるのです。


これはちょっと考えるときつ過ぎると思われるかもしれませんが、

では、なぜ、誠実でいい先生だったはずの、中央大学教授が殺されるのでしょか。



人は “良い人” だけでは、因果は成就しないのです。

その悪い因果を、回復できる先生が、いい先生なのです。


それでも、先生の範疇(はんちゅう)にない人は会えないので、

「誰でもいつでも救ってやりたい」と考えるのは、僭越(せんえつ)なのです。


それに、本人自身が救われていない者が、どうして人を救えるのでしょうか。

誰でもちょっと勉強すれば、「占い師ぐらいにはなれる」と思ったら、大間違いです。


まずあなたから救われる修行をしなければならないのに、

ただ勉学だけで、ちょっと手を合わせれば救ってもらえると、思い込んでしまうのは

いかにも無知なのです。



私の神は、私に言った。 「間違った者には、間違った答えばかりを出す」と。

そうされたら、答えに到達できないでしょう。

でも、こんな事は、枚挙にいとまがないほど現実に起こっている相違なのです。

根拠が狂っていたら、救うことなど、どんな科学者だって、出来るものではありません。


(「お前は私に尋ねなさい。お前に隠された、お前の知らないものを、私はお前に教える」と言った。)


ですから、あなたがまず神に愛される人間でなければならないのです。

すべてはそこから始まり、楽園に帰着するのです。


楽園の 「楽」 の意味も知らないものが、語りきれる世界ではないのです。

ですからケンカは無意味なのです。


神はやりたいだけ論争をさせて、放っておくに違いないのです。彼らが分かるまで。

神はけっして先に答えを教えたりしません。

苦しみぬいて真理をわが手に入れたものだけが、通れる道があるのです。


私は、私が何であっても、いっこうにかまわない。


私にできる事があればそれでいい。 


私は誓願を生きる。 それだけで十分です。


阿弥陀様のように四十八誓願も立てられないが、私には十誓願ある。 それで十分だ。


それをやり遂(おお)せれば十分だ。


昔神が約束したように、「お前につながる者を不幸にはしない。幸福にしてやろう」

その言葉の通りに、皆が幸福なら、私に文句はない。 それで十分です。



ですから、先生がた。 ケンカをしないで。

あなたが救えるはずの者を救えれば、それで役目は成就するのですから。

そのためにいっぱいいっぱい勉強して、精度をあげてくださいと、言いたい。


たとえ占い師でなくとも同じでしょう。

あなたが救える者を救えれば、皆さんにとっても十分なはずではないでしょうか。




       H21.1.15 (木)  pm12:18 記   依美澄卑親呼    小濱白光