イジメと書いて、9格。 9 は水を表します。 また私は、社会は 9 (水)だと思ってる。
だから、(イジメは)この世に元々あったものだと、思っています。
その最たるものが、キリストの殺害でしょう。
人は、どんなにいい人と言われても、自分と違うものを受け入れにくいのです。
だから、「その人を知りたくば友を見よ」、と言うのです。
自分でもどうにもならないほどの正確さで、人は人を選別しながら生きているのです。
それが分かっていないから、「あいつはいい奴だ」とか、「あいつは気に食わない」
などと言う事を、軽々しく言うのです。
そんな事を軽々しく言う人が、立派な人間のはずがない。
なぜなら、物事の道理が分かっていないのですから。
人はちょっとした事で人を選別し、色眼鏡で見やすいものなのです。
だから、それをしない為に修行をするのです。
なぜなら、人は千差万別であり、自分の理解を超えた人もいるからです。
コマーシャルで、画用紙に、鯨の黒い体を、延々と黒く塗り続ける少年のようにね。
彼はへたをすると、大人の理解が得られずに、精神病院へ送られる事だって考えられると、
コマーシャルの中では自分達を戒めていますね。
しかし、学校の先生こそ、忙しさのあまり、日々これをしやすい立場にいるのに、
警戒心が薄過ぎるというか、自信のあるあまりに気にもしないのか、恐ろしいという事を
忘れてしまっているのです。
子供は大人を見ています。 その純粋な目や心に耐えられるような修行が必要なのです。
なのに今の大人は、自分が未熟者のくせに、純粋な小児を教えようとして、言う事を聞かない
からと言って、ひっぱたくか、言葉の暴力で苦しめるのです。 恥の上塗りを知らないのです。
教師も大人も、イジメを無い事にしようとするために、物事を見間違うのです。
イジメは、いつでも、どこでも、起こりうるものだと考えれば、不注意な見方は
しなくなるでしょうに。
私は自分の子供がイジメられた経験から、教師自身の理解の無さが、
ある数人の子供のイジメを誘発し、また、止められもしなかったのだと理解しています。
小学校の演奏会で、田園ホールエローラで、私が直接目撃してしまった我が子の
舞台上での(ひな壇からの追い落とし事件。とうとう最後には一番はしに落とされた)場面も
先生は見てみぬ振りををしていた。 座席に戻った時も、四人にこずきまわされていたのを、
私は目の前で見てしまった。 もう少しで飛び出していって、殴ってやろうかと思った程でした。
(それは彼の無能さから出た事ではなく、いじめっ子ははしゃぎ、息子は抵抗しませんでした)
(また、算数でいつも高得点を取っても、3しか付いていなくて、教師に聞いてみましたら、
「出来る子が出来ても駄目なのだ」と、その先生は言いました。
「えっ? それじゃあ、50点の子が90点をとったら、5を付けるのか」と、聞いたら
「そうだ」と、その先生は言いました。)
小学校って、こんな事ありな所でしたっけ?
(まあ、その先生のお陰で、息子は良い学校と先生に巡り会い、良い友を得ましたがね)
数年前、昔の息子と同格数の名を持った20歳くらいの女性が、イジメを苦に自殺した。
(我が子は中学に行く前に私が吉名に変えて、私立の中高一貫校へ行ったので、それからは
ずっと今も幸福に健康に暮らしています。その学校が戸籍でない名を受け入れてくれた事を
いまもずっと感謝しています)
が、私はその現実を彼に、そっと耳打ちしました。
彼は、じっと考えていた後、「僕は死なずに済んでよかった」と、ぼそりと言いました。
彼は無口で、誠実で、真面目に物事を考えるタイプの子で、
自ら罪を犯すような子ではありませんでしたが、それでも、イジメられました。
親子して、1年半泣きました。 私達を見守り助けてくれた担任でない先生もいました。
異質なものをイジメるのが人間だとしたら、イジメは無くならない、という事です。
異質を認め合う社会であってこそ、豊かな社会という事ではないでしょうか。
人は、自分を偉い者だと、思わない事です。 特別だと、思わない事です。
そして、いつでも、イジメっ子になってしまう可能性があると理解する事です。
そして、出来うる限り、人を愛し、自分を大切にする事を教えましょう。
そうでなければ、教師も、生徒も、これからの日本も、惨めなものになってしまうでしょう。
そして、いつでも、心の悩みを相談できる社会を、みなで築き上げたいと思います。
見て見ない振りをしない社会を。
自由という名のもとに、権利の名のもとに、好き勝手を許してきた日本の、
つけを払う時が来たのです。