今朝、論語を読もうとして、偶然にも開いたところがここでした。 (岩波文庫 論語 p334)
孔子はいわれた、
「君子には三つの畏(おそ)れがある。天命を畏れ、大人(だいじん)を畏れ、聖人のことばを畏れる。
小人(しょうじん)は天命を知らないで畏れず(わがままにふるまい)、
大人になれなれしくし、聖人のことばをばかにする。」
孔子がいわれた、
「生まれついての物知りは一番上だ。学んで知るのはその次だ。行き詰まって学ぶ人はその次だ。
行き詰まっても学ぼうとしないのは、人民でも最も下等だ。」
孔子がいわれた、
「君子には九つの思うことがある。
見る時にははっきりと見たいと思い、 聞くときにはこまかく聞き取りたいと思い、
顔つきは穏やかでありたいと思い、 言葉には誠実でありたいと思い、
仕事には慎重でありたいと思い、 疑わしいことは問うことを思い、
怒りにはあとのめんどうを思い、 利得を前にしたときには道義を思う。」
孔子がいわれた、
「良いことを見ればとても追いつけないように(それに向かって努力)し、
良くないことを見れば熱湯に手を入れたように(急いで離脱)する。
わたしはそういう人を見た。わたしはそうしたことばの伝わるのも聞いた。
世間からひきこもってその志を貫こうとし、正義を行ってその道を通そうとする。
だが、そういう人をまだ見たことがない。」
子貢が仁徳のおさめかたをお尋ねした。先生は言われた。
「職人が自分の仕事をうまくやろうとすれば、きっとまずその道具を研ぐものだ。
(だから) 一つの国にいると、そこの大夫のすぐれた人にお仕えし、
そこの士人の仁徳ある人を友達にする(というようにして、自分を磨く人を選ぶ)ことだ。」
2000年以上も前のお言葉であるにもかかわらず、素晴しい。
今の人たちは語彙がすくないので、言葉では言わないでしょうが、
心にはこのような思いを持っている人も多いことと思います。
ですから、良い言葉、良い文字を壁にかかげ、ずっと見続けることは、
日々お守りを見つめるように、心によく効く薬となりましょう。
また、現代には現代の、通用しやすい言語が、多数存在していることでしょう。
それでも時々見る論語は、人間が、さして違わないのではないだろうかと、考えさせてくれます。
先生がいわれた、
「話し合うべきなのに話しあわないと、相手の人を取り逃がす。
話しあうべきではないのに話し合うと、言葉をむだにする。
智の人は人を取り逃がすことも無ければ、またことばをむだにすることもない」
この言葉は今の私に痛烈なパンチを浴びせるものでした。
先生が「わたしを分かってくれるものがいないねえ。」といわれたので、子貢は(あやしんで)
「どうしてまた先生のことを分かるものがいないのです。」といった。
先生はいわれた、
「天を怨みもせず、人をとがめもせず、(ただ自分の修養につとめて、)
身近なことを学んで高遠なことに通じていく。
わたしのことを分かってくれるものは、まあ天だね。」と。
どんな職業、偉業でさえも、(イチローさんでさえも)はじめは分かりにくいものだった。
ただ、自分だけは、自分を信じた。
信じるに足るだけの、感触を分かっているものは、自分だけだったからです。
自分はその足音を聞き、変化をまじまじと見、確信を持ち、その喜びを知っているのです。
人がけなし、罵倒する時でさえ、それがどのようにして来たかが分かるものです。
むざむざ言い負かされることの無いほどに、その羽は美しく、乱れることが無いことは、
本人のみが知ることを許されることです。 (結局は個人の修養なのですから)
私の場合は、易経が証明している。
そのこたえ 「地水師 九二。」 「風山漸 上九。」
見れる人、分かる人がいたら、読み直してください。
しかも時でもない時は、易経は決してこのような答えを出さないもの。
このことが分かる人がいたら、一度会って話がしたいものです。
どんなに清清しい気分になれることでしょうか。
H21.9.19 (土) pm10:13 記