世の中は夢かうつゝか うつゝとも

夢とも知らず ありてなければ

           ~『古今集』 よみひとしらず





***




 月遅れの盆を、父方の郷里で過ごすのは三年ぶりだった。

 久しぶりに訪れた逢沢(おうさわ)家では、祖母と操生(みさお)とを抜かした全員が茶の間に集っており

彬文(あきふみ)を快く迎えてくれた。


 都会と比べ、ここは時の流れが遅いのだろうか。

 気難しげな祖父も、人の好さそうな伯母の笑顔も――途中で見た景色さえ、以前とどこも変わっていない。

 だとしたら、変化の激しい街中に住んでいる自分は、急速に年をとってゆくのだろうか。

 茹だるような暑さに、半ば朦朧とした頭で、彬文はぼんやりとそんなことを思った。


ひとしきり自分の話題で盛り上がったあと、さりげなく伯母の久江が訊いた。


「彬久(あきひさ)は元気かしら」


 彼女の一言で、何故かその場が水を打ったようにしんとなる。

 その理由にも、十四歳になる彬文は気がついていた。


「ええ.急な出張で来られませんでしたけど」


 出がけに見た、父の新しいネクタイ姿を思い出しながら、彬文はあらかじめ父から用意されていた口上を述べる。嘘と知りつつ片棒を担ぐことに、抵抗はなかった。

 どうせ茶番なのだ。

 先程の皆の沈黙が、はっきりそれを肯定している。

 なのに、なるたけ核心を避けようとする、大人たちの間怠っこいやり取りは、いつみても可笑しい。


 例え周りがどう云おうと、彬文に反対する気はなかった。

 母が亡くなってから、七年も経っているのだ。


 ただ、自分がこれからどうなるのか――それを考えると気が重かった。

 今になって、何故父が自分一人を、三年も疎遠にしていた逢沢家に送り出したのか。

 その意味を計るのが怖かった。




 彬文を可愛がってくれた祖母は、三年前の夏に、軽い風邪をこじらせてそのまま逝ってしまった。

 なんとも呆気ない、早過ぎる死だった。

 彬文にとって、身近な人を亡くすのはこれが二度目だった。

 一度目は、母を亡くした七年前――そういえばあの時も夏だった、と思う。


 柔らかく笑む写真の中の祖母に、型どおりの挨拶を済ませてから、彬文は辺りを見回した。

 風通しのよい仏間は、祖母が生きていた頃と同じように、塵一つなくすっきりと片付けられている。

 それでも物の配置など、ところどころが微妙に記憶と違っていて、それが何だか不思議だった。

 この家でも、やはり時は流れているのだ。


「本当に、大きくなったわねえ」


 振り返ると、久江が切りたての鹿の子百合を手に立っていた。

 白地に桃色を重ね、紅色の斑点を散らしたその可憐な花は、祖母が最も愛でていたものだ。

 彬文も、庭に自生しているそれが風にそよぐ姿を、祖母と眺めるのは好きだった。

 表に視線を向けた彬文の後ろ姿に、久江がふと目を細めた。


「やっぱり親子。彬文さん、背中が彬久とそっくりね」


 成長期にもかかわらず、さっぱり伸びようとしない自分の背丈を、密かに気にかけている彬文であるが、大きくなったと云われれば、やはりそれなりに嬉しい。

 が、父と似ていると聞いた時、自分の胸に最初に湧いたのは嫌悪感だった。


「どうしたの。黙りこくって」


 予想もしなかった己の気持ちに驚き、返答する機会を奪われてしまった彬文に、久江が怪訝な顔をする。

 それには答えず、彬文は取り繕うように、居間では見かけなかった従兄の所在を尋ねた。


「……操生は」

「奥の間じゃないかしら、先刻見かけたから」


 口の中でもごもごと礼を云うと、彬文は逃げるように仏間を離れた。

 危惧をよそに、追いかけてくる気配はなかった。





***




 一歳違いの従兄、操生とは幼なじみのようでもあり、兄弟のようでもあった。

 幼い頃は何かにつけ、競い合い意識し合った間柄だが、年を重ねるにつれ、二人の関係はいつの間にか希薄なものへと変わってしまった。

 いや、きっと意識だけは昔以上にしている……少なくとも、自分は。


 何から話したらいいだろう。

 出来れば、あまり込み入った話はしたくない。

 考えながら黒光りする廊下を渡り、突き当たりを左に折れると、奥の間から光が漏れているのが見えた。


 本来は客間であり、彬文がかつて滞在していた時も、必ずそこで寝起きしていたのだが、普段は操生が別室――彼には他に、きちんと自分の部屋が与えられている――として使っていた。

 日当たりのいいことが、お気に入りの理由らしい。


「操生」


 開けっ放しにされていた襖から、覗き込むように顔だけを中に入れ、彬文はそっと相手の名を呼んだ。

 しかし、外から差し込む光に満ちた部屋には、どう見ても人の姿はない。


「……みさ」


 いっそ踏み込んでしまおうか。

 別に遠慮する理由もない。

 言い訳がましく心の中で呟いて、襖に手をかけたその時。


「ここだよ」


 不意に、あさっての方から声がして、文字どおり彬文は飛び上がった。

 途端、はじけるような笑い声が背後でおこる。


「なんだい、相変わらず臆病な奴だなあ」


 もう少し言葉を選んでくれてもよいものを、この従兄はこうやって、わざわざ彬文の癇に障る物言いをする。


「…そんな処にいるからだよ」


 あんまりなご挨拶に、彬文は上目遣いで相も変わらず意地悪な相手を睨んだ。




*** 第二章-葛藤_1 へ続く***