にんげんとことば
人間ってのは、何をするにでも「ことば」を駆使して生きている。
何かを伝えるときもそうだし、何かを考えるときも。
それだけでなく、物を見たり、聞いたりといった「五感」を駆使しているときでも「ことば」を通して感じている。
そういう意味では、人間である以上言葉、「ことば」という呪縛に縛られて生きるしかない。
ただそれでも時折「ことばにならない感覚」というものは確かにある。
そこらにある「ことば」では言い表せない程の、感情、衝撃。
何も言わないでも伝わる瞬間。
「ことばを必要としない」境地。
そういうのがある以上、何かを「ことば」でぐだぐだ言い表したりするのは、単なる「ゲーム」であったり、「ファッション」でしかないのでは?
とゼミの先生に聞いてみたことがある。
こたへて曰く
確かにそういった危険性もある。しかしそれでも我々は「ことば」によって生きて行くしかない。「ゲーム」や「ファッション」ではない自分自身の「ことば」によって。
その自らの「ことば」の「修練」を積み重ねることが、お互いに積み重ねあうことが大事なんだ。
そうやって足掻いて足掻いて足掻いた先に、「言葉にならない感覚」の「さらにもう一つ先」へ辿り着ける。
俺はこれを聞いてこう言った。
いやー先生、それって悟りでも開かない限り、凡俗の人間には無理なんじゃないっすか~?(笑)
さらにこたへて曰く
いや出来る!!
断言したよ。
この瞬間この人について行こうと思い、拙いながらも「ことば」に対して意識を尖らせて、尖らせようとはしているんですよ、これでも。
このブログを書き始めた理由ってのもまあその辺が絡んでいるわけですが。
ただねえ、、「ことばにならない」や「ことばがいらない」どころではなく、
「ことばが苦痛」でしかない感覚。
「ことばに対する拒否反応」が起こる境地。
これはどうしたらいいんでしょうか。
それすらも「ことば」で表さなきゃいけないのですか?
にんげんとして?
そしてさらにその先へ?
いやーそれはさすがに無理なんじゃあ‥‥?
いや出来る!!
あーあ、言い切っちゃったよ。
頑張りますか。
くっそう、EYEちゃんの変態め。(私信)
何かを伝えるときもそうだし、何かを考えるときも。
それだけでなく、物を見たり、聞いたりといった「五感」を駆使しているときでも「ことば」を通して感じている。
そういう意味では、人間である以上言葉、「ことば」という呪縛に縛られて生きるしかない。
ただそれでも時折「ことばにならない感覚」というものは確かにある。
そこらにある「ことば」では言い表せない程の、感情、衝撃。
何も言わないでも伝わる瞬間。
「ことばを必要としない」境地。
そういうのがある以上、何かを「ことば」でぐだぐだ言い表したりするのは、単なる「ゲーム」であったり、「ファッション」でしかないのでは?
とゼミの先生に聞いてみたことがある。
こたへて曰く
確かにそういった危険性もある。しかしそれでも我々は「ことば」によって生きて行くしかない。「ゲーム」や「ファッション」ではない自分自身の「ことば」によって。
その自らの「ことば」の「修練」を積み重ねることが、お互いに積み重ねあうことが大事なんだ。
そうやって足掻いて足掻いて足掻いた先に、「言葉にならない感覚」の「さらにもう一つ先」へ辿り着ける。
俺はこれを聞いてこう言った。
いやー先生、それって悟りでも開かない限り、凡俗の人間には無理なんじゃないっすか~?(笑)
さらにこたへて曰く
いや出来る!!
断言したよ。
この瞬間この人について行こうと思い、拙いながらも「ことば」に対して意識を尖らせて、尖らせようとはしているんですよ、これでも。
このブログを書き始めた理由ってのもまあその辺が絡んでいるわけですが。
ただねえ、、「ことばにならない」や「ことばがいらない」どころではなく、
「ことばが苦痛」でしかない感覚。
「ことばに対する拒否反応」が起こる境地。
これはどうしたらいいんでしょうか。
それすらも「ことば」で表さなきゃいけないのですか?
にんげんとして?
そしてさらにその先へ?
いやーそれはさすがに無理なんじゃあ‥‥?
いや出来る!!
あーあ、言い切っちゃったよ。
頑張りますか。
くっそう、EYEちゃんの変態め。(私信)