地理[編集 ]

熱海市中心部の空中写真。平地はほとんどなく、市街地や住宅地は傾斜地に形成されている。
1976年撮影の3枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真) を基に作成。

伊豆半島 の東側付け根に位置し、相模灘 に面する。市域内はほとんどが丘陵 であり、別荘 地や住宅なども高台の上に立つ所が多く、道路も勾配の急な坂が多い。海岸線もすぐに丘となる所がほとんどだが、中心部は埋め立てで砂浜海岸などが形成されている。

同じ相模灘に面する伊東市湯河原町 方面とは海岸に沿って地理的連続性を有するが、沼津市函南町 方面とは駿河湾 水系との分水嶺 となる急峻な丹那山地によって隔てられている。

なお、相模灘にある初島 も市域内となっている。

歴史


1937年 4月10日 田方郡 熱海町多賀村 が合併し市制施行。

古くからの湯治の地であり、地名は「阿多美」であったが、海から熱い湯が湧き出ていたことから「熱海」とされた。1604年には徳川家康 も来湯している。

鉄道省熱海線(現在のJR東海道本線 )開通以降、首都圏 からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。かつては新婚旅行や職場旅行の定番(行き先)であり市の中心地東海岸町などには大型ホテル・旅館が数多ひしめいていた。

1990年代 以降社員 旅行の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽化し転業も多い。一方で、2000年代 に入り温泉を引いたリゾートマンション が増加している。

2006年 、熱海市長は財政危機宣言を発している。ただ、財政力指数 が1を上回る地方交付税 自体不交付でもあるため富裕団体ともいえ、一連の発表は各方面に影響を与えた。理由として基金の取り崩しによる黒字であり、基金が底をつく可能性が高いためである。プライマリーバランス では事実上赤字財政である。

しかし近年の原油 高騰に伴って自動車の利用が控えられる傾向にある中で、都心 の近くにあり、鉄道交通の便のよさから離れた客足が戻ってくる傾向にある(逆に自動車利用者を意識した観光地では観光客が減少しているという)。

奥座敷としての熱海[


熱海が一大保養地として発展を遂げたのは熱海線の開通後であるが、保養地としての歴史は豆相人車鉄道 開通前にまで遡り、明治初期ごろには既に政財界の要人が保養や会談のため多く訪れていた[1] [2] 。さらに、温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明治の頃、前述のように、多くの政治家や政府高官が保養や会談のため来遊したので、東京との連絡が非常に多く、そのため東京~熱海間に電話回線が敷かれ明治時代に開通し、「市外通話発祥の地」[3] としても有名である。

現在はかつてほどの盛況は見受けられないものの、東京方面からの保養地・日帰り温泉地として相応の賑わいを保っており、いわゆる奥座敷 とされている。 また、主要駅の熱海駅 は静岡県内の東海道本線 の駅では唯一、JR東日本 の管轄となっており、熱海駅発の東海道本線のほとんどの列車が東京駅 まで乗り入れている。 このような事情から、静岡県内であっても中部地方 ではなく関東地方 の一部として扱われることがある。 また、神奈川県西部地域及び熱海市、計11市町の行政と観光関連事業者・団体が連携して滞在型の観光地づくりを目指す「箱根・湯河原・熱海・あしがら観光圏」[4] が、2010年4月28日、観光圏整備法により国に認定された。