この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
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第十一默想 エ マ オ 途 上
序想一 聖ルカ傳二十四章十三節-二十七節
序想二 主は二人の弟子と同行して、旅し給ふ。
序想三 主イエスを常に我が道連れとし、わが師とし得るやう祈る。
一 我らの主は二人の弟子と同行し給ふ
主は、同じ街道を下る旅人として、彼らに追いつき給うた。始め、彼らは主を悟らなかつた。『されど彼らの目遮(さ)へられてイエスたるを認むること能はず。』彼らは語り合ひながら道を行く。主は默して、彼らのそばを歩み給ふ。然し、主は弟子らの語るところに無關心ではなく、彼らの悲哀に同情し給うた。遂に、主は言葉をかけ給うた。『なんぢら歩みつゝ互に語りあふ言は何ぞや。』 弟子らは斯かる質問を不思議に思つた。假令遠方からの旅人にせよ、エルサレム全市を騒がせた
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彼の出來事を知らぬ筈はないと思つた。そして、この旅人こそ彼らが心注いで語り合ふ話題の主人公であることを知らなかつたのである。
一旅人として、二人の弟子に加はり、向ひつつ語りつゝ活き給ふ我らの主を默想する。主の在すこと恒に我らと遠からず、我らが世常の職務にも、事業にも、他人【ひと】と道行くにも、談話--時として、其が主御自身に関することである--にも、我らの心事思想はみな主の注意し給ふところであることを學ばねばならぬ。確かに、かゝる時、主は我らに近づき、我らは其を悟らぬと雖も、主は我らの道連れであり給ふ。
かく想ふとき、御復活の主を我らの生涯の道連れとし奉ることが出來ぬであらうか。主は我ら各々に約し給うて居る。『視よ我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり。』と。
之は誰にも許されて居る事であるが、その體驗如何は個人々々の問題に屬する。キリストは恒に我らに接近し給ひ、そして我らを招き近づかしめ給ふ。若し我らにして主と偕に旅せんと願ふならば、主は我らが生涯の旅にも何時も同行し給
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ふのである。さりながら、悲むべし、我らが思想言行は、寧ろ屡々主に背き、却つて惡靈を我が同伴として招くではないか。
然らば、奈邊まで我が思想言行に頼り得るであらうか。
誠や、主イエスの伴侶たることは我らが心の悦びである。一度此の御臨在の甘味をあぢはふときは、自己の過失によつて之を失なはぬやうに努めるであらう。主は我らの心腹腎腸を洞察し給ふ。我らは主に對してふさはしからぬ何物をも裡に藏してはならぬ。主は我らが一切の言葉を聽き給ふ。聖心を痛め奉るが如き事は、何をも語つてはならぬ。我にとつては、主の御臨在を仰ぎ、我らの思想、言語を絶えず守護せられるより以上の助けは他にないのである。御復活の主が、我らの日常生活の不斷の伴侶として在し給ふ祝福を、體驗するに勝る助けはないのである。
二 二人の弟子は主に悲歎困惑を告ぐ
彼らの希望は、主の十字架に於て大打撃を受けたが、まだそれは致命傷をうけ
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たまゝ、全然棄てることができずに居る。彼らの心は、猶、失はれた主の後を慕うて居る。悲歎し、困惑しても子弟の關係が絶えたとは思はず、また敢て主にさう語りもしなかつた。
此の場合に於ける彼らは、我らが困迷悲歎に陥る時の好模範である。恐らく、誰もが斯かる場合――信仰と希望が失はれる場合、疑惑と混亂に陥る場合、心靈上乾き荒びそして寂漠に苦む場合、神が御顔を隠し給ふと覺ゆる場合――を經驗せねばならぬ。凡て斯かる場合には、彼の二弟子に倣つて、職業上に、または世俗の快樂に遁れ道を求めず、宜しや、それが其の際充分理解できずとも、眞の慰藉を望まねばならぬ。我らは主に凡ての難題を告げねばならぬ。さすれば、我らが心中に主の御臨在を覺え、之によつて力づけられるか否かに拘らず、確かに主は我らに近く在す。そして、早晩、我らが悲愁の暗を照らし、疑惑の雲を拂ひ給ふであらう。
一方、悲愁と疑惑が如何に心を塞ぐとも、我らの爲すべき義務を、決して等閑にしてはならぬ。心を勵して平常の責務を果たすとき、疑惑の黒雲が忽然として
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晴れ渡ること屡々である。キリストは、動的博愛と同胞愛からの種々な働きの中に於て、我らに來り見【まみ】え給ふ。主は彼の二弟子に爲し給うた如く、一個の旅人の姿を以て我らに來り給ふ。主は我らに援助、同情、奨勵等を求める者として來り給ふのであつて、我らが努めて之を助けんとするとき、心の苦悶暗黒は過ぎ去り、まことや、人に仕へることは主に奉仕することであると悟るに至るであらう。
三 主は聖書を説き給ふ
『己に就きて凡ての聖書に録したる所を説き示し給ふ。』そして、主は彼らを教へ給ふとき、その理解力を啓發し、愛慕の情を裡に起させ給うた。
全體、彼らが主から教へられたことは何であつたらう。とにかく、二人の心は『内に燃え』、希望は再びかへり、殆ど失はれんとした信仰は甦り、燃え立つて焔を生ずるに至つたのである。
同様の經驗は我らにもあるべきである。キリストは我らと偕に在して、聖書の
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奥義を教へ給ふ。主の御教示なくては、之を正當に理解することが出來ぬ。人智は以て足らず。靈の事は、唯、靈的に洞察すべきである。キリストは、求むる者に與へんと約束し給うた聖靈によつて、我らの悟性を啓發し給ふ。斯くして、主は、教會にも、個人の靈魂にも、預言者としての御務めを執行し給ふのである。之は『彼らはみな神に教へられん』≪ヨハネ傳六。四五≫といふ新しい神則である。キリストは此の眞理の一時萬事的に顯し給はず、書物の中に記して遺し給うた。それは、聖靈が人の心裡に教へ給ふところの、生ける眞理となし給はんがためである。
故に、我ら聖書を繙くときは、キリストを我らの教師として仰がねばならぬ。さすれば、主は聖靈に對する我らの悟性を明かにし、之に親しむ心を呼び起し給ふ。我ら之を讀みかつ默想するとき、主はその句節―久しく讀み馴れて居たもの――を用ひて、之に我らが必要に適する意味と能力とを與へ給ふのであつて、それは曾て思ひも及ばなかつたものとして現れる。斯く、キリストは聖書中に御自身を示し、之を通して我らに語り給ふ間に、我らの悟性を啓發し、我らの『心を内に燃え』しめ給ふのである。
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聖範 第二巻 第八章
第三巻 第一章。第二章。
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===現代語訳案===(2021.03.06)
第十一黙想 エマオへの道
序想一 聖ルカによる福音書第24章13~27節
序想二 主は二人の弟子の旅に同行された。
序想三 主イエスをいつもわたしの同行者とし、わが師とすることができるように祈る。
一 わたしたちの主は二人の弟子に同行された
主は、エルサレムからエマオに向かって街道を下る旅人の姿をとって、二人の弟子に追いつかれたが、最初、二人の弟子は主であることに気づかなかった。『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。』≪ルカ24:16≫ 彼らは語り合いながら道を進む。主は黙って彼らのそばをお歩きになられた。しかし、主は二人が話していることに無関心ではなく、彼らの悲しみに同情され、とうとう声をおかけになった。『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』≪ルカ24:17≫ 二人の弟子はこの質問を不思議に思った。どこから遠くから来た旅人であったとしても、エルサレム中を騒がせた主イエスの受難の話を知らないはずはないだろうと思った。そして、話している旅人こそが、二人が心をかけて話し合っていた話題の主人公であると知らずにいた。
一人の旅人としてあらわれ、二人の弟子とともにエマオに向かいつつ、語り合いつつ、活きておられたわたしたちの主を黙想する。主がおられるということは、わたしたちから遠い場所のことではない。わたしたちの日常の仕事でも、わたしたちが誰かとどこかに向かうときでも、その話の中――ときとして主ご自身に関係することだがーーにも、主はわたしたちの心の内のすべてにご注意を向けてくださっていることを学ばなくてはならない。 主がわたしたちに近づかれ、わたちたちはそれに気づかなかったとしても、間違いなく主はわたしたちの同行者である。
このように思い、ご復活の主をわたしたちの生涯の伴侶とすることはできないだろうか。主はわたしたちそれぞれに約束してくださっている。『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』と。
このこと自体は誰にでも許されていることではあるが、その体験がどのようなものかは個人個人によって異なる。キリストはいつでもわたしたちにお近づきくださり、そしてわたしたちをおそばに招き寄せてくださる。もしわたしたちが主とともに旅をしようと願うのであれば、主はわたしたちの生涯の旅にも、いつも同行してくださる。それなのに、なんと悲しいことに、わたしたちの思いや行いは、何度も主に背き、逆に悪霊を同行者として招いている。そうであれば、どこまでわたし自身の思いや行いを信頼することが出来るだろうか。
主イエスの伴侶であることはわたしたちにとって心の喜びである。ひとたび主のご臨在の甘味を味わえば、自分の過ちによってそれを失うことがないように努めるだろう。主は私たちの内側を洞察される。わたしたちはどのようなものであれ主に対してふさわしくないものを、心の内に持ってはならない。主は私たちのすべての言葉をお聞きになられる。主がその聖い心をお痛になるようなことは語ってはいけない。わたしにとっては、主のご臨在を仰ぎ、わたしたちの思想、言葉を絶えずお守りくださる以上の助けはない。ご復活された主が、わたしたちの日常生活の絶え間ない同伴者としておられるという祝福を経験することに勝る助けはない。
二 二人の弟子は主に悲歎と困惑を告げられた
復活された主とともにエマオに向かった二人の希望は、主が十字架にかけられて死んだことで大きな打撃を受けていたが、それは致命傷ではなかった。その証拠に、二人はその信仰を捨てることが出来ずに、なお失われてしまった主の後を追い、慕う気持ちを捨てることはなかった。悲歎し、困惑していても師と弟子の関係が絶えてしまったと思っておらず、主にそのように告げることもなかった。
このときの彼らは、わたしたちが生活の中で困惑や悲歎に陥ったときの良い手本となる。おそらくこのようなとき――信仰と希望が失われるとき、疑惑と混乱に陥ったとき、霊的な渇きや荒び、寂漠に苦しむとき、神がその御顔をお隠しになっているのではないかと思えるとき――は誰であっても経験することだろう。それらのとき、不安を払拭しようと仕事に走ったり、世俗の快楽に逃げ道を求めたりせず、この二人の弟子のように、たとえ問題の本質を充分に理解できなくても、神による真の慰謝を望まなくてはならない。わたしたちは自身が直面するすべての難題を主に伝えなくてはならない。わたしたちの心の内にご臨在をされる主によって力づけられることばかりではないかもしれないが、それでも確かに私たちの近くに主は居られる。そして、遠くない将来、わたしたちの悲しみの暗闇を照らし、疑惑の雲を払いのけてくださるだろう。
一方、悲しみと疑惑がどれほど心を塞ぐことがあっても、わたしたちがなすべき義務をおろそかにすることは決してあってはならない。心を励まして平素の通りの責務を果たしているとき、疑惑の黒雲が忽然と晴れ渡ることは間々あることである。主はこの二人の弟子になされたように、ひとりの旅人の姿をとってわたしたちの近くに来てくださる。主はわたしたちに援助、同情、はげましを求めてこられるのであり、わたしたちがそれを助けようとするとき、わたしたちのここrのの苦悶の闇は過ぎ去り、真実人に仕えることが主に使えることであると悟ることできるだろう。
三 主は聖書をお説きになれれた
『聖書全体にわたり、御御自分について書かれていることを説明された。』≪ルカ24:27≫ そして、主は二人の弟子に教えをたまわったとき、彼らの理解力を啓発し、愛慕の情を心の内に起させられた。
二人の弟子が主から教えられたことはどのようなことだっただろうか。とにかく、二人は「わたしたちの心は燃えていたではないか』と思い、再び希望を取り戻し、燃え立つ炎を生むことに至った。
これとどうようの経験はわたしたちにも起こるのではないだろうか。キリストがわたしたちとともにおられ、聖書の奥義をお教えくださった。主のお教えがなくては、聖書を正当に理解することはできない。人の智では及ばず、霊的なものは霊的に洞察するしかない。キリストは求める者に与えると約束された聖霊により、わたしたちの悟性を啓発された。このようにして、主は教会にも、個人の霊魂にも、預言者としてのお努めを執り行われた。これは『彼らは皆、神によって教えられる』≪ヨハ6:45≫という新しい神のおきてである。キリストはこの真理のすべてを明らかにされず、福音記者を通じて聖書の中にお残しになった。それは、聖霊が人の心の内にお教えくださることの生きた真理とされるためである。
そのため、わたしたちが聖書を開くときには、キリストをわたしたちの教師として仰がなくてはならない。そうすれば、主は聖霊に対するわたしたちの悟性を明らかにし、それに親しむ心を呼び起こしてくださる。わたしたちはこれを読み、そして黙想するとき、主がその長い間読み馴れた一文をもって、わたしたちが必要とする意味と力をあたえてくださるのであり、それはかつて読んだときには思いもつかなかったような形で現れる。このように、キリストは聖書の中にご自身を示され、これを通してわたしたちに語りかけながら、わたしたちの悟性を啓発し、わたしたちの心を燃えさせてくださるのである。
聖範 第二巻 第八章
第三巻 第一章。第二章。
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久しぶりにまとまった休みが取れたので、作業を再開した。
夕暮れのエマオへの道で 弟子たちに話された…の聖歌にもある有名なエマオ途上の出来事への黙想。
引き続き作業を進めたい。
が、その一方で元田作之進の「未信者に與ふる書」を手に入れたため、
これも何かの機会と思い、静修指導書をちょっとはなれてしばらくこちらの活字化の作業をしてみたい。
■ルカによる福音書
13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 14この一切の出来事について話し合っていた。 15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
■ヨハネによる福音書(6:45)
44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
