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コンチェルト(Concerto)…音楽による西洋文化史としてのクラシック音楽の用語で、日本語でお固く書けば、協奏曲で、"Concertare"という言葉を由来にしております。"Concertare"は、ラテン語では「競い合う」、イタリア語では「協調する」という意味があります。"Concerto"の和訳に際して、明治時代に「競奏曲」という表記も使われていたように、ラテン語由来で解釈するということも行われていたようですが、競うという解釈の路線では、お互いに高め合って、より高次の物を作り上げるという考えではなく、相手を潰して勝てばいいという、あまり発展的ではない考え方が蔓延る隙を与えてしまうんでしょうね。今ではイタリア語由来と思しき「協奏曲」という言葉が主流になっています。私としては、競奏だろうが、協奏だろうが、退屈しなければどっちだっていいんですがね。
 
さて、協奏曲は、独奏楽器と合奏体の共演≒競演というのが、イメージの定番でして、大体このイメージを踏襲して説明すれば、一般常識としては事足れりと言えます。このイメージは、人類が文明を持ち、歴史を記述するようになった頃から変わらないイメージではないんだけども…というツッコミを入れたくなりますが、その話をすると、「コンチェルトの日」というタイトルからどんどん離れていって、何の話をしているのかわからなくなるので、大体17世紀から18世紀にかけて、このイメージが徐々に形作られてきたというところでスルーしましょう。
 
協奏曲を「独奏楽器と合奏体の共演≒競演」と捉えたとき、敢えて共演と競演を完全なるイコールとして結びつけなかったのは、それを作ったり受容したりする側が由来をラテン語で捉えるか、イタリア語で捉えるかで、イメージが違ってくるからです。
ラテン語的に捉えると、イメージは「独奏楽器 vs 合奏体」という構図になります。この構図では、独奏楽器を一騎当千のやり手の駒として捉え、並み居る敵としての合奏体を屈服させて従属させるような筋書きになります。
イタリア語的に捉えると「合奏体 with 独奏楽器」という構図になります。この構図では、どちらが優位に立つかではなく、双方が混然一体となって、合奏体オンリーや独奏楽器オンリーの作品よりも聴き応えのある出来栄えを目指すという筋書きになります。
尤も、実作としての協奏曲は、ラテン語的捉え方とイタリア語的捉え方が、その配合の比率に個別的な差こそあれ、混ざり合っているというのが実情です。往々にして、自分が独奏楽器の達人で、自分の技が映えるような筋書きで曲を書き、ラテン語的捉え方の出来レースになります。独奏楽器の達人が、協奏曲を外注する際も、大概、そういうラテン語的出来レースの曲を発注し、出来栄えに応じて「俺が目立たないじゃないか!」と受注側に文句をつけることもあります。こうした出来レース的協奏曲の一例としては、ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲群を挙げればいいでしょうか。パガニーニは、自分の都合のいいところで効果的に相槌を打つように伴奏パートを書いています。受注側に文句をつける例としては、ヨハネス・ブラームスのヴァイオリン協奏曲なんかがいい例です。一応、ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、ヨーゼフ・ヨアヒムの為に作ったことになっていますが、ブラームスの脳内的受注先はサラサーテでした。なので、ブラームスは、演奏してほしくて楽譜をサラサーテに送りましたが、サラサーテは、ありていにいえば「俺が目立たない」という理由で、レパートリーに加えませんでした。
イタリア語的捉え方に傾いた協奏曲の書き手は、出来レース的協奏曲の書き方にうんざりしている人が手掛けます。先に例示したブラームスは、その好例で、彼の書いた協奏曲は、出来レース的な伴奏パートにはせず、独奏パートを呑み込まんばかりのボリューミーな伴奏パートを書いています。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも、通し番号にしてNo.20以降のピアノ協奏曲では、出来レース的協奏曲の作法を超えて、伴奏パートに主導権を渡しかねないバランスの書き方を実験しています。
 
協奏曲の演奏に於ける独奏と伴奏の関係は、ラテン語的な傾向の強い作品では伴奏が独奏に傅き、イタリア語的な傾向の強い作品では伴奏が独奏と握手する関係で説明しうるかと言うと、そうは言いきれないところがあります。
19世紀から20世紀前半にブイブイ言わせていた独奏家たちは、伴奏は独奏に無償で傅き奉仕するものだというスタイルが存外多く、独奏が我儘に振舞って伴奏を振り回すような演奏が沢山録音に残っています。そういう無茶を要求してくる独奏にどれだけ当意即妙に対応できるかが、伴奏の腕の見せ所です。独奏がどんな風に伴奏を巻こうとし、伴奏はどうやって独奏についていこうとするかという、まさに職人的技芸の矜持をかけた水面下の丁々発止のやり取りは、トム&ジェリー的な面白さを聴き手に味わわせてくれます。尤も、そういう職人の意地をかけた鞘当ての面白さは、曲を勝手にトム&ジェリー化しているという批判もされるべきなのでしょうが…。