追い払いたいものある?

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直近で追い払いたいものは、「原作至上主義」かな。
漫画の著者(原作者)がメディア・ミックス企画のドラマで脚本家と揉めて、身投げしちゃった事件。先日のブログでもごちゃごちゃ書いたんですが、色々考えさせられることもあって、再論してみようと思います。というか、このモヤモヤを節分だし、追い払いたいってところですね。
 
クラシック音楽の聴き手としては、漫画原作者は作曲家、メディア・ミックス企画のドラマ制作側は演奏家と置き換えが可能かと。
原作を大事にしましょうって話としては、アントニーン・ドヴォルジャークのロ短調のチェロ協奏曲の話を、引き合いに出すことがあります。

人気作曲家となったドヴォルジャークは、破格の報酬を提示されて、いそいそとアメリカの音楽学校の校長の職を引き受けるんですが、あっという間にホームシックになり、黒人霊歌を耳にしては、故郷の大地を思い出してメソメソするという生活を送っておりました。まぁ、それでも作曲家ですから、当地で得られた音楽素材と自分の郷愁の念を創作活動に昇華させることで、名作を生み出すことが出来たわけですが、その傑作のひとつが、ロ短調のチェロ協奏曲。(昔、イ長調のチェロ協奏曲を作りかけて失敗したので、これで挽回が出来たね…というのは余談。)
で、ドヴォルジャークは、ホームシックが限界値を超えてしまって、さっさと故郷に帰ってしまったわけですが、その限界値突破の一因となったのは、カウニッツ伯爵家のヨセフィーナ夫人の重病の報せだったそう。ヨセフィーナは、ドヴォルジャークが若い時に想いを寄せた大事な人でしたが、ドヴォルジャークが帰国後、一ヶ月でお亡くなりになりました。ドヴォルジャークは悲嘆にくれましたが、彼女のことを絶対に忘れないぞ…と、彼女のお気に入りの自分の歌曲のフレーズを使ってガッツリと第三楽章のコーダを書き換えました。このコーダは、ドヴォルジャークにとって、どうしてもなくてはならないものになりました。
さて、作品が出来上がったので、演奏しにくいところはないかと、チェロ弾きのハヌシュ・ヴィハーンにチェックを打診。そのまま初演もヴィハーンに頼むつもりでした。演奏しにくいところを指摘していくヴィハンに、自分の許容範囲内で修正を加えていくドヴォルジャークでしたが、ドヴォルジャークの大事にしていたコーダ部分に「ここ、カデンツァ入れていい?」とヴィハンが言ったことには、頑として譲らなかったといいます。なにはともあれ、作品の初演の日取りは決まりましたが、その日取りではヴィハーンが初演にはせ参じられないことが分かり、レオ・スターンが急遽初演のソリストに選ばれました。その後、ヴィハーンがこの曲を披露する段になった時、ドヴォルジャークは「一音もいじるんじゃねぇぞ!」と念押しの手紙を送ったのだとか。

そういうわけで、この話は、演奏者には、改変するのであれば、原作者の意向をちゃんと伺ったほうがイイヨという教訓になり、原作者には、演奏者が勝手な改変をしないように、釘をさせるときにさしておけ、という教訓になります。
じゃあ、原作への忠誠は絶対かというと、実はそうでもないんじゃないかとも思います。
イーゴリ・ストラヴィンスキーが、《春の祭典》の売れてる演奏を並べて全部こき下ろすという記事を書いたことがあるそうですが、これについてグレン・グールドが疑義を呈したことがあるそうな。(このエピソードはどこに載ってたっけ…と、グールド好きの人に問い合わせてみたら、フランツ・オズボーンの『ヘルベルト・フォン・カラヤン』の下巻の150頁に、「グレン・グールドは、ストラヴィンスキー自身の『推進力あるリズム、皮肉を込めた旋律、控えめなルバートが、まっすぐに音楽の核心へと聴き手を引き込む』ことは認めながらも、ストラヴィンスキーによるストラヴィンスキーという優位な立場で、他の解釈を切って捨てることに疑問を投げかけている。」とあるそうです。)このグールドの指摘も、一考の価値があるんじゃないかと思います。
原作こそが正しく、それ以外は異端だという意見については、こういう話もあります。
フリッツ・クライスラーが、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮するルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲のコンサートに行くというので、周りの人が口々に「トスカニーニのベートーヴェンは正しい演奏じゃない」ことを理由に挙げて、行くのを止めようとしたけれど、「そんなことは大した問題じゃないさ!」と言って、そのままコンサートに行ってしまったのだとか。
正しいって大事なのか、そもそも正しいって何か・・・と、色々考えさせられます。
 
で、最初の漫画原作者の話に戻りますと、「原作に忠実に」という言葉の忠実度は、どういう尺度で忠実判定をするのかってところが曖昧なところが、失敗なんじゃないかと思います。
昨日「いやー、私の思い描いた通り!スバラシイ!」と言ってた人が、何か不味いモンでも食って機嫌悪くなって「クソみたいなもん作りやがって!」と手のひらを返して来たり、自分のいないところで「スバラシイって、建前に決まってるっしょ。アレはないわー!」とこき下ろしてたりするという話は、漫画原作に限らず、色んな業界でひそひそ話で耳にする話です。
ありていに言えば、その時のコンディション次第で、いくらでも忠実度の要件をコロコロ変えられるので、「原作に忠実に」はアテになりません。
だから、どうとでも後で変えられる抽象度の高い言葉ではなく、例えば西村雅彦の「ON THE WAY COMEDY 道草」みたいなキャラクターの設定資料とか、「役者のカメラ目線は許さない」とか「キスシーンはもってのほか」みたいな絶対行ってはいけない具体的な禁忌とか、改変の余地を狭めて、「この設定を外すようなことをすれば契約切りますよ。」と先方に約束をする手間を入れなきゃいかんのではないかと思います。グスタフ・マーラーなんか、自分の思い描いたように演奏してほしくて、細かく楽譜に指示を書いています。あとは、現場や制作会議に参加させてもらったり、コンテンツ制作の脚本担当と何度も会合を重ねて、「忠実さ」への認識のズレの擦り合わせをしたりでしょうか。「原作に忠実に」という曖昧な発注で、自分の思い通りのものが自動的に出来上がるほど、モノやコンテンツを作る業界が単純じゃないということは、『解決!ビフォー・アフター』のトラブルで、ある程度周知されていることです。忠実性にこだわっている割には、色々穴が多いなぁというのが、色々とこの件に纏わる情報に目を通した上での、私の感想であります。
 
拾った情報の中で、気になった情報と言えば、シナリオ協会だかの中の人が、「私が対峙するのは原作であって、原作者ではない」というのは、この言葉だけを目の当たりにすると、尤もなことを言っている気がします。実際、メディア・ミックスで原作をメディア用脚本に落とす場合、原作者の日常を脚本に落とすわけではないので、仕事上の優先順位は、圧倒的に作品でしょう。しかし、「だから原作者に会うつもりはない」となると、「そうだよねー」という頷きをいったんストップしたくなります。原作ありきで仕事をするんだから、スジとして挨拶くらいして欲しい。作品を読んでの疑問点や、メディア化の条件の擦り合わせを一緒にやらなきゃ、原作者と表現のベクトルを合わせられないだろうと思うのですよ。
あと、オリジナルをつくる苦労はしたくないけれどオリジナルやりたいから原作を変える旨の発言も、シナリオ協会だかの中の人の発言にあったようですが、どう好意的に解釈しようとしても、全く共感できないですネ。こういう、原作をオリジナルを作れない自分のフラストレーションのはけ口か何かのようにしか考えないようなのと仕事をしても、ひどいものを作られた挙句に「原作がヘボだったから」という捨て台詞を履いて逃げる絵ヅラが簡単に描けてしまいます。こういうのに行き当たって、原作をズタズタにされる原作者には、何らかの救済を願わずにはいられません。
 
ただ、原作は軽視すべきではありませんが、ストラヴィンスキーの毒舌へのグレン・グールドの疑義のスタンスも頭をもたげます。他の表現の可能性を削ぐような検閲的な原作至上主義はいかがなものでしょうか。原作者公認の表現以外を認めなければ、別の視点からの再解釈は望めなくなるので、表現は形骸化・陳腐化されて、消費者からは次第に飽きられていくのではないかと思います。原作の重視は、二次創作物との感興の違いとして、タイアップされる形で批評の俎上に載せるだけで、事足りるのではないでしょうか。つまり、二次創作に於ける表現上の原作からの逸脱や改変が、原作を台無しにしていると見るか、はたまた原作の解釈に新たな光を照らすものと見るかは、消費者の判断に委ねられるべきです。原作者は、そういう二次創作物の消費者として参加し、原作を最もよく知ることを強みに批評を展開すれば良いでしょう。
そして、原作至上主義の立場から、あらゆるメディアへの変換を信用しないのであれば、そういう企画を著作権保持期間が失効するまで許諾しないという手もあります。そもそも作品を発表せず、自らの楽しみとして書棚に封印し、没後に焼却してもらうでも可です。コンテンツ制作の準備期間中に、コンテンツ制作側が自分の想定通りのコンテンツを作ってくれないことが分かれば、許諾を取り下げることも出来ます。それをせず、契約を交わして、その契約内容の履行に問題がなければ、その作品の完成後、自らの視点で講評すればよい(場合によって、名声等を汚したと見做して、告訴をしても良い)はずなのですが、そこに何の問題があったでしょうか。
 
今回の原作者の主張を見る限り、確かに脚本家が原作者に用意した脚本が、「原作に忠実に」という原作者の想定を裏切るものだったことがわかります。
ただ、この原作者は、「原作に忠実に」という許諾の条件に、その条件が守られなければ、加筆修正でコンテンツ制作に介入することを、条件に付帯させており、この点をテレビ局は守っています。さらに、脚本を自分で書くこともあり得ることも、条件の中に書かれていますが、実際に終盤の脚本を自身で書いているので、メディア・コンテンツの制作側に契約上の落ち度はありません。制作側に落ち度があるとすれば、原作者が脚本を書くに当たって降板した脚本家が、その仕事の内幕を、原作者に中てつけるような表現を織り交ぜながら暴露したことでしょうか、この件については、職務規定違反がなかったかどうかで精査が必要な案件です。
この脚本家への反論のつもりで、旧Twitter等に自らの言い分を投稿した原作者は、その発言を削除し、「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」と書き残して命を絶っていますが、この点は、クリエイターの姿勢としては、問題ありと、私は見ています。
 
ネット上では、原作者がこのトラブルを苦にして命を絶ち、契約を結んだテレビ局が原作者を虐めたという話が真実として語られています。ただ、上記のように、コンテンツ制作側の不首尾は、契約条件に則ってカバーされているので、脚本家の暴露以外で原作者に敵意を向けたと解釈できるところは見つかりません。原作者代理人たる小学館が、原作者本人の意思に反する行動をとり続けた可能性も考えられますが、そう断じられる情報はありません。
原作者は、メディア化に当たって原作の忠実さを条件に出すほどに原作に固執しているのであれば、原作者ないし著作権保持者として出来る手立ては、まだあったはず。「攻撃したかったわけじゃ」という、世間体のよさそうな物言いではなく、脚本家の言い分に反論があるならば、徹底的にやり合った方が、今後のコンテンツ作りの教訓となってよかったのではないかと思います。
私から見ると、すべて私の思い通りになって当然と高をくくって契約した原作者が、テレビ局との協同的関係の構築に失敗して孤立し、自分の思い通りにならなくて憤死したように見えます。(連載の仕事中に、それを放り出して命を捨てたことに関しては、プロ意識を疑います。)原作者は、漫画家としては一家言を持っていたとしても、テレビ局向けの脚本家としては一家言を持っているわけではないので、原作に忠実なものを作るためには、そのドラマ化のノウハウを、その方面に詳しい人(最適は、この企画で担当になった脚本家)に頭を下げて教えを乞うべきではなかったでしょうか。(クラシック音楽の作曲家たちは、自分の専門外の楽器の曲を書くに当たっては、その楽器の専門家に頭を下げて助言を乞うています。)
 
「原作は尊重されて当然」と考える原作至上主義の発想は、私は、危険な思い上がりだと思っています。
数多の原作の中に、尊重されるような原作があるのであり、それこそがマスター・ピースと呼ばれるものです。尊重されたければ、作品を尊重されるものに育てる必要があり、その必要を満たすために他者の手が必要ならば、そのために協力者を探し、「力を貸してください」とお願いしなければなりません。
原作者も尊重せよというのあれば、そうされる風格と実績をお持ちなさいと切り返すことになるでしょう。クリエイターは、原作者というだけでチヤホヤされるような仕事ではないということでした。
 
原作を尊重する素振りのまったくない変な仕事師は真っ平御免ですが、原作者というだけでふんぞり返る人も、その姿を見ただけで、百年の恋も冷めてしまうというものです。
 
あぁ、そうでした。この原作者の自死の件で危惧することがあるとすれば、リスペクトくれくれな自称クリエイターが、構って欲しさに、この原作者を連想させるタームを出してリスペクトを強要するって事案が発生するかもしれんということですね。思い通りにならなかったり、気に入らないことがあったりすれば、この手のタームを出して、先方をビビらせればいいのです。
そんなクリエイターは、鬼のエサになってしまえばいいのダ!