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人気ドラマ『セクシー田中さん』原作者が日テレの“改変”に苦言…視聴者衝撃「なぜこんな行き違いが」「気の毒すぎる」

昨年10月クールに放送され、人気を呼んだドラマ『セクシー田中さん』(日本テレビ系)。12月2..........≪続きを読む≫

漫画原作のドラマなり映画なりが、原作者の表現意図からズレてしまい、原作者が機嫌を損ねてしまうという話は、クリエイター界隈では良くある話。

世界的に有名なのは、パメラ・リンドン・トラヴァースの『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』をウォルト・ディズニーが映画化したアレですね。トラヴァースは、映画のプレミアに招待された時には「ひどい出来!」とののしって涙にくれ、ミュージカル化の話が持ち上がった時には、アメリカ人を一人でも使ったら許さないという条件で許可を出すくらいに、ディズニー映画を苦々しく思っていたのでした。ディズニーとトラヴァースが亡くなり、ディズニーの娘(ディズニーに映画化を願い、映画を作るきっかけを作った本人)も亡くなった後、ディズニー・カンパニーは、この制作裏話で映画を一本作っていて、ディズニー側の言い訳めいたストーリーになっていますが、果たしてトラヴァースが生きていたら、なんと言ったでしょう…。しかし、ディズニー側とバチバチにやり合うトラヴァーズも活写されています。あと、三谷幸喜の『ラヂオの時間』なんかも、原作者と、それをコンテンツとして作り替える側のせめぎ合いと苦悩をコメディ・タッチで描いているので、まぁ、見てみてください。

私は音楽愛好家なので、音楽に引きつけて、これと似た話はないかと思いを巡らせてみます。

音楽界隈で有名な話としては、マリー・ビゴーとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの話、アルトゥーロ・トスカニーニが心酔したジュゼッペ・ヴェルディの話、パウル・ウィトゲンシュタインとモーリス・ラヴェルの話が有名ですね。

最初の、ビゴーとベートーヴェンの話は、ベートーヴェンがビゴーの弾く自作を耳にして「俺の発想と違う。けど君の弾き方だと、もっと良くなる気がする…」といって、演奏を続けさせたという話。作者に「俺の発想よりいいじゃねーか!」と言わせるのは、演奏者冥利に尽きるというわけです。

二つ目の話として、トスカニーニは、ヴェルディの《オテロ》の初演にチェロ奏者としてそこに加わり、そこでヴェルディと面会しています。トスカニーニは楽譜通りにチェロを弾きますが、それだとオーケストラの音の洪水の中に埋もれてしまいます。そこでヴェルディに相談したら、「君の弾き方は楽譜通りだけど、ここでは指揮者に従った方がいいよ」と諭されました。その後、ヴェルディ邸にトスカニーニがお邪魔した時、昔話として、パリで自分のオペラを上演するに当たって、自分の思い通りになるように稽古をつけ、それで上演が成功したにもかかわらず、自分が数ヶ月留守にして戻って来てみると、何もかもが台無しになっていたという話を聞かされました。その話しぶりから、《オテロ》の時のヴェルディのアドバイスは、本心ではなく、妥協を強いられた末の苦々しいものだったことを察し、作曲家をないがしろにするような表現(オペラでの勝手なアンコールやカットなど)を自らに戒めたのでした。

三つ目の話も示唆に富む話だと思います。ラヴェルは、隻腕ピアニストのウィトゲンシュタインの依頼を受けて左手用のピアノ協奏曲を作りましたが、ウィトゲンシュタインが「このままじゃ演奏出来ないから、弾けるように書き換えるよ!」と通告。ラヴェルは「一音も変えるなYO!」と切り返します。この時のやり取りでウィトゲンシュタインが「演奏家は作曲家の奴隷じゃない!」と反論。それに対してラヴェルは「演奏家は作曲家の奴隷だ!」と言い返したのだとか。結局ウィトゲンシュタインは、勝手に改変して初演を敢行し、録音も残しましたが、ラヴェルはジャック・フェヴリエに依頼して、楽譜通りに公演してもらいました。

ビゴー&ベートーヴェンの話は、プレイヤー(コンテンツとして原作を作り変える側)がクリエイター(原作者)の意図を超えてきたときには、それが自分にとって好ましければ、それに乗っかっても良いということになります。作った曲は、演奏者の手に渡った時点で、完全なる自分の制御下から離れるので、作った人は、それを台無しにされない限り、善良なるオーディエンスとして立ち合い、その予期できない変化を楽しむ余裕を持ったほうが良いのでしょう。作られた曲は、演奏されることで、原作者にリフレクトしてくるのです。

二つ目と三つ目の話は、プレイヤーはクリエイターを差し置いて何をやっても許されるのかという問題を孕んでいます。慎ましく演奏して欲しい曲を乱暴に扱われた場合、それを作った側は、抗議しても良いといえます。ヴェルディが生きていた頃は、プレイヤーのほうが「演奏してやっているだけでも感謝しろ」とばかりにクリエイターに横柄な態度を取っていて、ヴェルディは妥協を強いられていたということになります。コンテンツ制作に於いて、表現に多様な幅を持たせることは悪いことではなく、表現方法が多ければ多いほどいいのですが、プレイヤーの横柄な態度は、「多ければ多いほどいい」という表現の多様な選択肢の一つを確実に潰しにかかっています。それはクリエイターとの同調という選択肢です。クラシック音楽の場合、クリエイターは鬼籍に入っており、直に表現の意図を聞き出したり、現場と表現をすり合わせたりすることが出来ません。そうであればこそ、「クリエイターの表現の意図に沿う」ための「意図」をどう忖度するかで、アプローチに多様性が生まれます。クリエイターもプレイヤーも、「より良いコンテンツ」を作ることに情熱を傾けるならば、一方が他方を蔑ろにするのではなく、両者の落としどころを見つけて精進することが求められます。

ラヴェルとウィトゲンシュタインの話は、プレイヤーはクリエイターの奴隷で良いのかという問題も提起しているように見えますが、ラヴェルが許さなかったのは、ウィトゲンシュタインが自分の腕前の制約を理由に改変を行おうとしたことにあります。ウィトゲンシュタインの提案が建設的なものであれば、ラヴェルも「お前は奴隷だ!」などと態度を硬化させなかったでしょう。弾きこなす技術がなければ、弾く技術を身に着けて出直すか、手を出すなというのが、ラヴェルの真意です。クリエイターの意図を汲んで、その人の納得するコンテンツを作るというのは、研究で言うところに、先行研究の洗い出しに似ています。そうした洗い出しを経てこそ、その先行研究を改善する案を出す確実度が上がります。「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」とばかりに奇抜な案を出すのも一つの手ですが、その数多の鉄砲玉から黄金を見つける作業(と、そういうことのできる人の手)がなければ、鉄砲玉と時間の無駄遣いにしかなりません。

 

こうしたことを踏まえて、人気ドラマ『セクシー田中さん』の「原作者」が苦言を呈したという話は、コンテンツとしてドラマを制作する、いわゆるプレイヤー側(役者さんというよりは、プロデュース側)が、原作者をないがしろにして勝手なことをした結果なんだろうなと思います。漫画原作だから、アニメで作り直すのもアリなんじゃないかと思ったのですが、原作者が自ら命を絶たれたという報道を耳にして、目が点になっています。ご冥福をお祈りします。

ただ、漫画家さんも、物書きとして、クリエイターなのだから、自らの死で口を噤むのではなく、勝手なことをするプレイヤー(ここでは役者ではなくプロデューサーや脚本家)側に異を唱えることで、自らの作品の独自性を世に知らしめて欲しかったというのが報を受けたときの第一印象ですね。原作者は、先の話で言えばラヴェルであり、ドラマを制作する側は、ウィトゲンシュタインであり、ウィトゲンシュタインたるドラマ制作側は、原作者の意図を汲み取れなかった「腕の無さ」、あるいは原作者に「私が思ってたものと違うけれど、私のよりも素晴らしい!」と言わせられなかった至らなさを恥じねばなりますまい。

クリエイターは、死を以て表現とし、抗議の意味を込めるのではなく、生業の表現ないし人間としての言葉で抗議の意を示すべきだとは思いますが、プレイヤーがクリエイターに死を決意するほどに追い詰めていたのだとすれば、なんとも野蛮な話。

何というか、文化的な「ダウン」を感じていますヨ…。