冨田勲のイーハトーヴ交響曲は、シンセサイザー使いの大御所作曲家が初音ミクを使ったことで話題を呼んだ作品でした。
この曲は、ヴァンサン・ダンディのセヴァンヌ交響曲やラフマニノフの交響曲第2番などがざっくり引用されてて、一部の方々からは「パクリじゃねーか」といわれたものでございます。

他の曲からネタを頂いたり、そのままパクったり、下敷きにしたりというのは、他のジャンル同様にクラシック音楽でもよくある話です。
そういうもので有名な例をいくらかあげてみたいと思います。

例えば、ジョアン・セレロールス(Joan Cererols, 1618-1680)の宗教歌《おお、なんという苦しみ》と、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)のマタイ受難曲の冒頭です。



バッハは、他の作曲家たち同様もしくはそれ以上に研究熱心な作曲家で、ヨーロッパ中のいろんな音楽をせっせとコレクションして回っていましたが、スペインの音楽にまで唾をつけてたわけですネ。
当時の作曲家たちは、歌の節を引用するのであれば、その元々の歌の節の意味を自分の作品に的確に位置付けて引用しようとします。引用は、高度な学識に裏打ちされた用意周到な作曲技法なわけでス。

もう一つの例は、エマニュエル・シャブリエ(Emmanuel Chabrier, 1841-1894)の狂詩曲《エスパーナ》と、エミール・ワルトトイフェル(Émile Waldteufel, 1837-1915)のワルツ《スペイン》です。



シャブリエの作品は1883年の作品で、ワルトトイフェルのものは、その3年後のもの。音楽業界の先輩が後輩の作品をいじくって曲にしたんですネ。シャブリエは元々パリの内務省の役人で、1880年になってようやく役人仕事を辞めてプロの作曲家に転向した人なので、当時の業界では重鎮と新人くらいの経歴の差がありました。シャブリエがワルトトイフェルの曲を知ってどうコメントしたかは残されていませんが、先輩はシャブリエの作品の名前に基づくと作品に一筆添えていることもあるし、黙認していたのかもしれません。

同輩の楽想をネコババしたっぽい例としては、ハンス・ロット(Hans Rott, 1858-1884)の交響曲のスケルツォと、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860-1911)の交響曲第1番のスケルツォですね。



ロットと机を並べていたマーラーは、ロットの作った交響曲の楽譜を手に入れて綿密に研究していたそうです。オーケストレーションやテンポ設定をいじり、メロディ・ラインもロットの作品とすぐにわからないようにひねっていますが、弾力性のあるリズムや、ひねったメロディの端々にロットの影響があります。マーラーは、この曲を自分の歌曲集《さすらう若人の歌》でも使っていました。
ちなみにロットは、作った交響曲をヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)に見せて評価を仰ぎますが、ブラームスに散々こき下ろされてしまいました。失意のロットは発狂してしまい、作曲家としての生命は断たれてしまいましたネ。
ちなみにロットの交響曲の終楽章には、ブラームスの交響曲第1番の終楽章の主題に酷似したメロディが使われています。




ブラームスはエピゴーネンを嫌う人だったので、ロットの作品を見て腹が立ったのでしょうネ。

知らずにネタを頂戴して訴えられたケースもあります。
例えば、ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838-1875)の《カルメン》のアリア〈恋は野の鳥〉。

この曲は、もともと別のメロディだったのですが、初演時のソプラノ歌手、セレスティーヌ・ガリ=マリエが曲に難癖をつけて出演を渋り、ビゼーが急遽作り直して現在の形になりました。
ビゼーが急遽作るのにネタとして頂戴したのは、スペインのエル・アレグリートという歌曲でした。
ビゼーはスペイン民謡だろうと思ってネタを拝借したのですが、実は曲を作った本人、セバスティアン・イラディエル(Sebastián Yradier, 1809-1865)が存命で、ビゼーはイラディエルに告訴されてしまったのでした。

この訴訟は、結局出版の際にイラディエルの歌を基にしたという但し書きをつけることで決着しています。

もう一例、有名なものは、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)の交響的幻想曲《イタリアより》の〈ナポリ人の生活〉です。

この曲には、1880年に建造されたヴェスヴィオ火山の登山鉄道(1944年の噴火で破壊)のコマーシャル・ソング、《フニクリ・フニクラ》が大々的に使われています。リヒャルト・シュトラウスは、この曲をナポリ民謡だと思い込んで使ったわけですが、ルイジ・デンツァ(Luigi Denza, 1846-1922)が作曲したものでした。


リヒャルト・シュトラウスは、著作権運動を活発に行っていた作曲家だったので、あっさり告訴されてしまい、全面的に敗訴することになりました。このため、この曲が演奏されるたび、リヒャルト・シュトラウスはデンツァ側に著作権料を払うことになりました。