昔と今でだいぶ変わったと思うものは?

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地元では、本屋とCD・レコード店がなくなりました。
本はかさばるだけだし、CDで聴けるものは大概Youtubeで聴けるというので、スマートフォン一台で十分…というのは、数年前からの傾向でございます。今はもう、AIに要約させて、それで本を読んだことにするみたいでございます。音楽に関して言えば、頭出し再生か早送り再生でササッと済ませるのがスマートなんだとか。中学校の音楽のセンセとの話で聞いたことには、音楽鑑賞の授業で、「Youtubeで探して早送り再生すれば時短になりますよ」なんてアドバイスをくれた生徒さんがいて、「音楽鑑賞を時短で済ませるなんて発想は、昔はありませんでしたわヨッ!」なんて愚痴ってましたっけ。
今日は、デジタルな通信技術に依存してる状況なので、それがうまく機能している分には便利なんでしょうけれども、通信障害が起きたときの、スマートフォンをいじる人のイライラっぷりを見るにつけ、我々は便利さと引き換えに、色んなものを売り飛ばしてしまっているのではなかろうかと考え込んでしまいます。

雨の日の楽器の過ごし方を教えて!

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楽器の過ごし方は、所有者の都合によります。ハイ。
 
楽器の話として思い出す印象的なものは、兵庫の加古川市のJRの駅に設置されていたストリート・ピアノの撤去の話。もう2年ほど前の話になりますか…。
利用時間や音量など、使用上のルールを守らず、ピアノを雑に扱ったり、通行人に迷惑を書けたりする人が後を絶たないので撤去して、外野からは「音楽を愛せない、民度が低いところなんだね…」と言われてましたっけ。
ただ、私としては、「ピアノっていいモンだという夢を見すぎなんじゃねーの?」と思いましたっけ。
音楽愛を軽々しく口にする人にも、釘を刺しましょう。
「音楽って、そんなにいいモンじゃないですよ。」
 
音楽ってのは、平たく言えば、音を加工する技術です。野良の音は、人間の都合などお構いなしに、あちらの都合で勝手に音が鳴ります。しかも、それは、目で見てすぐにそれと分かる形もなければ、匂いもなく、味もありません。その不如意で聴きたいと思わない音に、我々はびっくりしたり、不気味に思ったり、うるさいなーと思ったり、何か起きるんじゃないかと警戒したり、あるいは気にならなかったりするわけですが、我々の体は、そうした不如意な音に対する防御が十分に出来ません。防御が出来ないんだったら、手名付けてしまおうってので、コントローラブルに音を扱うための「楽器」が生まれたというわけですネ。尤も、聴覚でしか把握できず、その襲来を簡単に遮断できない「音」ってのは、大昔の人には相当な脅威だったとみえて、度量衡の計測に音の響きを使って、そこから「音律」を作り、その音の基準の一つ一つに名前と意味を与えて、人間文化の枠内で利用できるようにしようとしています。
司馬遷の『史記』の「楽書」の一節にこういうのがあります。

「夫上古明王舉樂者非以娛心自樂快意恣欲將欲為治也。正教者皆始於音音正而行正。」
(夫れ上古の明王楽を挙ぐるは、娯の心で以て自ら楽しみ意を快にし欲を恣にするに非ず、まさに治を為さんと欲するなり。正しき教えは皆音に始まり、音正しければ行い正し。)

自分の好みや都合で変な音を鳴らしたら、人の行動も変になり、国も傾くんだぞと、放縦な音の使い方に釘を刺しています。まぁ、「楽書」では、「音は正しく使えば、健康にもいいんだぞ!」と言う話が後に続くわけですが、裏を返せば、正しく使われなければ、健康に悪影響が出るということ。数千年前の中国の人の言うことが科学的か否かは脇に置いたとしても、治世に影響が出ることを危惧するほどに、音の扱いにデリケートだったというのがわかります。
 
音を加工する技術の進化によって、今日、音を様々に加工して表現を作り上げることが出来るようになりましたが、音楽の素材となる「音」の、古代の人たちが恐れた毒性みたいなものは、なくなったわけではありません。世に出ている加工品と、それを摂取している我々が、うまく毒を回避しているのか、はたまた毒に気づかないままなのか…。
でも、私がいい音楽だと思っているものでも、時と場合によっては、人をイラつかせることもあるでしょうし、こうした私と他者のズレみたいなものは、私を他の誰かに置き換えても成り立つんじゃないでしょうか。
1974年の神奈川県で起きたピアノ騒音殺人事件みたいに、音は人に殺意を植え付けることもあります。遍く素晴らしい音楽は存在しない。
 
音楽って、元来、そんなにいいモンじゃありません。ただ、そんなにいいモンじゃないものを、そんなに悪いモンじゃないくらいにまで人間文化の中に手名付けていったのは、先人たちの功績です。私達が、作曲家や演奏家に敬意を払ったほうがいいと思うのは、そういう音の毒抜きと加工の試行錯誤の結果として生み出された得難いものを、享受しているからです。でも、そうして生み出された得難いものも、使い方を違えれば、そこにいる人たちの迷惑になり、音は抜き取られたはずの毒性を回復してしまいます。我々は、そんなに悪いモンじゃないくらいに手名付けられた音楽を適切に享受することに慣れすぎて、それが自明化しているのではないでしょうか。音楽が素材としているものの本来の毒性を、我々は忘れてしまっているのではないかと危惧します。こうしたことは、本当は学校で教えられなければならない類の基礎なんじゃないかと思うのですが。