湯坂下の稲荷神社の前は桜街道で有名な「かさまい大畑桜ロード」の北側からの始まりの場所である。
子どもの頃、この場所は、戦時中に大間までの鉄道を通そうとして、線路用に土盛りされた「ガード」と呼ばれるところがあった。山手には防空壕の跡が2カ所あって、コウモリ探検に子どもグループでよく行ったところだ。

大畑川には、大間鉄道のためのコンクリート製の橋脚が何個かつけられていて、下側には人が登れる台座があり、川遊びのときによくいって登っては川に飛び込んだりを繰り返して遊んでた…
振り返ってみればこの辺は自然の遊びには苦労はしなかったところだ・・・ブンジョ(水産修練所の分所)と呼んでいた遊びの基地の周りはオンコの実やカレンジの実がたくさんなっていて、木登りや陣つくりなど「ナゲワラシ」の遊びは事欠かなかった場所である。

山側には「湯坂」といって山に登る坂道林道があり、登りきったところは縄文土器がよく見つかる場所もあった。この場所から湧館・大畑道・二枚橋まで、発掘研究が進められ、学術的に貴重な縄文晩期の立体土偶や祭祀跡などが全国でも例をみないほど数多く発見され、今年、国の重要文化財に指定されたほどオンリーワン価値のあるところでもある。

おろかなことか、子どもの頃はその価値がわからず、縄目模様の小さな土器はそんなにめずらしくなく、小さいものであれば遠くに投げ飛ばして遊んでいたこともある。…ア~!許してケロッ!

でも、発掘され国重文に指定された土器や土偶に焦点が当たり始めてはいるが、重要なのはそういうモノだけの世界だけではなく、具体的にどこで発見され、先人たちはどのような暮らしをしてどのような地域の人々と交流をしていたのかも歴史上極めて大切なことだと思うが、残念ながら近場に住んでいてもほとんどわからない。
※写真は「青森県庁HPより」http://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/juho_kouko_27.html

地域のこれらの情報が有効活用されれば、歴史や文化、郷土の誇りが一層育まれ、子どもたちが大きくなっても対外的に自信を持って古里を語れるようになるのではないか…

もったいない…後世のためにも、行政頼みばかりでなく、私たちも知恵を出していかなければ…

【あさひな公園】
大畑町唯一の運動公園である。写真ではわからないが野球場、陸上競技場、サーカー場、テニスコート、室内プールなどがある。緩やかなアップダウンするウォーキングコースもあり、時々利用させてもらっている。
ここから、大間寄りの二枚橋方向で、国重文の土器や土偶が発見されたという。






普段はめったに歩くことはない山手側の旧二枚橋小学校跡の方向に進む。









昔あった木造の二枚橋小学校は大分前に移転して、跡地はのどかな小公園となっている。そこから海手の方をみれば、旧大間鉄道の橋脚が見える。








このトンネルを毎日通って、旧小学校に通う子どもたちの姿が浮かんでくるようだ。









下の川側から見た橋脚。近くで見ると意外な高さに圧倒される。
この鉄道が、もし通っていたら現在の物流や交流が違っていたのではと、良い面も悪い面もいろいろ考えては見るが、戦争利用のイメージからか、私の頭の思考は長続きしない…。








二枚橋地域は、砂浜に隣接して居住区がある場所である。子どもの頃、海で遊ぶときは、孫次郎間という海岸側から磯回りして二枚橋方向に足を伸ばして遊びに来てたところである。
下北半島では砂浜の海水浴場がめっきり少なくなってきているが、ここはまだ荒らされていない砂浜海岸のひとつ(遊泳は禁止みたいだけど)。
大畑の湘南海岸!?…






木野部峠に差し掛かる手前に釣屋浜というところがある。 釣屋浜はもと塩焚村と言われており、 塩を焚く釜場があったという。
中学生の頃、同級生の友人NとSと一緒に、釣屋浜や佐助川まで、ボロチャリこいでよく泳ぎにきていた頃を思い出す。
釣屋浜のハジッコから更に赤岩というところまで泳いでいくと、急に水温が下がってひんやりとする場所がある。そこは水深は深いが海藻が大変豊富で大きなウニやアワビがとれたところであった…当時は足ヒレなんか高価で持てなくて、水中メガネひとつで深くもぐって、浮き上がるときは我慢やタイミングをはずすと海水を飲みこんで溺れかけ状態に(笑)…
※教訓 欲タカリにいいことなし!


【釣屋浜にある塩釜神社】
車では幾度となく通っているが、この神社を実際に見たのは生まれて初めて…普段いかないところにはまだまだ知らないことがたくさんありそうだ…
年食って感動が少なくなってきているので、これからそういうのを見つけるのも小さな楽しみとしよう…







塩釜神社
・祭神  塩土老翁神・猿田彦命
・例祭  十月十九日
寛文三年 (一六六三) に仙台千賀浦より勧請された。 江戸時代までは 「塩釜大明神」 と言われて本地如意輪観音が祀られていたが、 明治になり神仏分離令により仏像が取り除かれ、 新たに猿田彦命と塩土老翁神が勧請され、 名称も 「塩釜神社」 と改められた。  宮城の塩釜神社を本社とする。 航海安全、 漁業、 製塩、 安産の神として信仰されている。(大畑町教育委員会看板より)

さあ、木野部峠にはいるどぉ~!