歩きながらタバコを吸う。短くなったタバコの灰が指先に触れても何も感じない季節がきた。指の皮膚が厚くなったのかもしれない。汗をかきながらバイトに行く。仕事はほとんど覚えてしまい、深夜一人になることも多くなった。ネパール人のシンさんはやめて国に帰ってしまった。シンさんは優しかった、いつまでも俺を新人扱いしたが、その行為に嫌味はなく、簡単な仕事を残してめんどくさい仕事を代わりにやってくれた。劉さんのミスでシンさんは最後のバイトに入れなかった。俺と加藤で回しているところにシンさんが来て、バイトに入っていないことを確認すると、牛丼を一杯食べて帰った。加藤はキッチンの隅でゆっくりと牛丼を食べる外国人に苛立っていたが、シンさんはそんなことを気にせず、美味しそうにゆっくりと食べていた。食べ終わると俺に「じゃあね、バイバイ」と言った。俺はその日のために覚えたネパール後で「デレデレダンネバート」と笑顔で言った。もう一つ覚えた、また会いましょうを意味するフェリべントゥンラはその場にそぐわなかった。シンさんは嬉しそうに笑った。大学生の佐野くんは長期休暇に入った。三島さんと加藤と俺の3人は週に代わる代わるシフトに入る。たまに一緒になる彼らとは、カレーの人気がなくなっているとか、日曜日はスイミング教室の生徒が何人か来るとか、そんな話をするようになったし、もしくは全く喋らなくもなった。何人か大学生の新人が入り、賑わいもしたが、深夜帯になると静かになる。シフトを増やした俺は夕方から朝までの時間に働いている。夕方は大学生に話を合わせながら、22時を過ぎると黙々と次の日の準備をした。バイトを終え、服を着替える。熱気に満ちた更衣室の中で瞼を閉じる。夢の続きを見るように18時からのバイトを海に例えた。俺は最初、海岸に立っている。夜になると風向きが変わる。陸は冷たくなり、風が海の方へ俺を押すのだ。その風に抵抗はできない、気がつくと海の中にいる、海の中で何をすることもなく、ただ浮いているのだ、最初のうちはもがいていた、ただそんなことをしなくても浮くことができるように人間の身体は作られていることを知る。この海は俺が行きたかった海じゃない、近くに島なんてない、最初から何も無いのだ。浅くて溺れることもない、溺れそうになれば潜ってそこに足をつけ力強く蹴る、そうすることで簡単に頭は水面に出る。ただ、風向きが変わり、陸に流されるのをずっと待っている。仕込みをやって、タバコを吸う、また仕込み、タバコ、何度か繰り返すと、外が水色になる。その水色は海水の中から日の当たった陸を見た時の色なのだ。ふと左肩を見る、夢で見た左肩の傷は徐々に皮膚が閉じている、海の砂に傷られるように、丸く滑らかになっていく。その手を右手でさする、右手を見ると小指と薬指がない。そこには最初から何もなかったように手の甲から先の感覚はなかった。中指も徐々に短くなっているのがわかる。それに気づいて、俺は力一杯、足で海の底を蹴る。右手を海水から出す為に、その為に呼吸が苦しくなる、それでも手を失ってしまったら何もできなくなる気がしたから、強く地面を蹴った。目を開け鏡を見た。手足はしっかりとついていて、汗で身体が濡れている。水分が抜かれたような眠くなる疲労が俺を襲った。店を出て浅野さんを迎えにいく。薄手の女性が帽子を深く被って出てきた。前に見た時とは違い手首に包帯を巻いている。その手で力強くドアを開けた。いつもの男の姿はなかった。そのあと浅野さんが出てきた。いつものように肩でドアに体重を乗っける。俺がドアを引いてやる、「ありがとう」と言う。男もののTシャツとジーンズは女性の小さな身体を強調した。彼女の匂いは、仕事終わりでなくても感じるようになった、良い匂いではあったが、あまり好きではなかった、ただもう慣れてしまった。2人でコンビニまで歩く、タバコの吸い殻を前に投げると、足の裏に自然に吸い込まれ、火は消えた。コンビニで牛乳を買った。彼女は何も買わなかった。浅野さんへの言葉遣いは変わった。彼女に合わせるのではなく、俺に合わせるでもなく、彼女の年齢と俺の年齢のちょうど真ん中で生活しているような、そんな関係性を表す言葉遣いになった。「前野くん睡眠薬やってるでしょ」「なんで?」「昨日見つけた」彼女は真剣な顔で言う。「今はやってないよ」「意味ある?」真由美の言っていた事を思い出した。彼女の目の奥に誰かを感じる。その誰からは冷めた目で客観的に俺のことを観察している、いや、いろんな人間を俯瞰していてたまたま俺を見たと言う感じかもしれない。「最近はやってないよ、寝れるようになったし、考えることが減ったから」「そう、よかったよかった」彼女の表情は安心しているが、目はどこか遠くを見ていた。その目を今度は俺に向けた。「来週の日曜日、コミケに行く」「そうなんだ」「前野くんも来て欲しいの、これで最後にしたいから」「最後って」最後という言葉は夏にぴったりだ。高校時代の青春はだいたい夏に終わった。その寂しさも夏特有で、必ず次に進まなければならない、そうでなくても季節の遷移が勝手に次に進めてくれる、そんな最後なのだ。「もう、コスプレやめるの」「なんで?」「もういいの、みんなやってないから」彼女はどうしてコスプレを始めたのだろうか、そして、どうしてやめるのだろうか。ただ、やめてしまう理由に自分が関係していることは確かな事だった。その確かなものを言葉にできない、気づかないふりをしていたのかもしれない。「じゃあ、見に行くね」「夜は、2人で海に行かない?前言ってたじゃん」「海ね」「バイト休める?」「休めるよ」「じゃあ決まり」「俺車ないよ」「いらないよ、電車で行こう」「電車か」「どこの海がいいの?」「うーん、賑わってるところ、たくさんの人がいるところ」「横浜とか?」彼女は少し考えたが、それ以外の海を、そもそも海を知らないように、「横浜」と答えた。
その日の昼、ベットに2人で入った。瞼を閉じて、夢の続きを見た、夢の中では意思があって、これが夢であることもわかった。2人で海を見ながら海岸に座っている。浅野さんにはやっぱり手足がない。自分の左肩を彼女の肩によせる。中指はもうなくなっていた。俺は人差し指で自分の手を砂に描いた。どんな手が良いだろうか、今まで読んだ小説、見た映画、たくさんのものからいろんな手を想像した。ピアノを優しく弾く手、赤子を抱え込むような大きな手、ピンク色のマニキュアを塗って男の背中に爪を食い込ませる手、三島さんのように火傷の傷が馴染んでいる力強い手、原稿用紙に文字を書き殴る細い手。いろんな手を砂に描いている。気がつくと小指に砂が触れたのがわかった。元に戻った手の指はペンを握るには十分すぎるほど太くなっていたが、爪の形や指の長さは紛れもなく自分のものだとわかった。今度は左腕を描き始めた。たくさんの想像をめぐらし、何十もの腕を描いた。気がつけば自分の体は元に戻っていた。興奮して浅野さんにこの事実を伝えようとする。「浅野さん、俺腕が戻ったよ」「いいなー」「浅野さん、想像するんだよ、手を足を」「でも前野くんみたいに砂に絵をかけないよ、腕ないし、私美術の成績も悪かったし」「俺が描くよ、だからどんな手が欲しいか言ってよ」「うーん」彼女は考え込んだ、ずっと考えている、長い時間が流れた、俺は希望を前に足踏みする彼女に苛立つ。「想像するだけだよ、手や足を、あとは俺が描くよ」と大きな声を出してしまう。彼女は少し焦って、目を閉じて考えている。静寂は突然終わった。彼女が目を開けた、目を開けた時の音なんて聞こえるはずはないが、その音のように言葉が出た。「わかんないや」「想像するだけだよ」「思いつかないんだもん……」彼女が泣いてしまったので急いで苛立ちを抑える。「どうして」「思い出す手は冷たい男の手ばっかなの、ごあごあして、毛の生えている奴、私のじゃないんだもん」「じゃあ俺の手は」両手を浅野さんに差し出した。「こんな綺麗な手じゃないもん」浅野さんは涙を拭こうとして、砂に顔を埋める。顔を上げた時、砂で顔の表面が少し削れているのがわかった。目は閉じかかっていて、低い鼻がより一層低くなる。「前野くん、私を泣かせないで」俺は何もできずにただ立ち尽くす。やっぱり船が必要だと思った。彼女を背負って船を一緒に探せばいい。「船を探そう、2人で」「どこにもないわよ」「でも、ここにいるよりはマシだよ」俺は彼女を背負って地平線に向かって歩き出す。しばらく歩いたら男が立っていた。その男の顔は一度見たことある、いつの日か、女にドアを開けてやったソープランドの男だった。男は船売っているらしい。ずっと見えなかったのに、歩いてみればすぐに男は見つ買った。俺は安心してその男に声をかけた。「船、売ってくれないですか」男はニヤニヤしながら俺と浅野さんを見た。「売ってもいいよ」男は笑っている。「ただ、1人しか乗れないよ」「いいですよ、俺泳ぐんで」「そうかい、あんた優しいね、それに若い」男はまだ笑っている。「何で払えばいいですか?」男は待っていたかのように大声で笑い、言った。「女の目さ」「それじゃあ島についた時、何も見えないじゃないですか」「島なんて最初から見えてないのさ、俺はその女の目に島を見せてやるのが仕事だからな、だから目をもらう」「代わりに俺の目じゃだめですか」「何言ってんだよ、お前には島が見えるんだろう、俺には島なんて見えないね、多分その女にも見えてないさ」俺は島の方向を向いた。「浅野さん、あれ見えますか」「見えないよ」「ほら、やっぱり見えてない、だから目と交換だ」男は話を続けた。「最初、手足がなくなるお前を見た時、この女や俺と同じだと思ったよ、そうやって身体が色々削られて、最後は心が削られる、心が削られるとなんでもできるさ、俺みたいに。だがお前は違う、なくなった手足を作っちまった。そんな想像力俺にはなかったさ、多分この女にもない、住んでいる世界が違うんだよ」「でもあなたは島をみせるって言った、どうして島を知っているんですか」「金さ、女は金を島だと勘違いするのさ、ただの紙切れなのにな、時計、バック、色々買って気づくんだよ、自分の手足がなかったことに」男は吹き出して笑った。男にも手足はなかった。俺の顔に絶望を見ると、男は笑って話を続けた。「俺も昔お前みたいな女と付き合ってたよ、女はあそこに島があるから行きたいって言うんだ、俺には見えなかったさ。その女が言うんだよ船が欲しいって、女の目は売れなかった、島が見えてるんだからな、仕方なく俺の目と船を交換したよ。海に出て、女が言う方に俺は船を押した。島が近づいてきて、女は言ったよ「一緒に島におりましょう」俺はうなずいて、女の手を握った、女は島に降りたらしく、そこに立っているのが分かったさ。でも俺には踏みしめる大地がなかったんだよ、女は立っているのに、俺はずっと海の中だった」男がこっちを見て笑う、男の目に眼球は入っていなくて、ただ藻が瞼より下にびっしりとくっついていた。「生まれた時から島を見れない奴はいる、そんな奴は島を追わない方が良いのさ」
目が覚めたとき、彼女が俺の手を握っていた。幸せそうに安らかに眠っている。17時のアラームが鳴って浅野さんが目を覚ました。「おはよう」夜なのにおはようということに、もう違和感はない。「おはよう」「起きてたの?」「夢見ちゃって」「怖い夢?」「楽しい夢をみたよ」「どんな夢?」「前の続き、あのあとボートはのって島に着くんです、その島で浅野さんはコスプレしてて、その島で大成功してた」「なんのコスプレしてた?」「タチコマ」2人で笑った。2人でいる時は想像を共有できる、人間はそうやって自分を見失わないようにしなければならないと思った。コスプレイヤーで成功することをもっと具体的にイメージしなければならない。「コスプレやめないでくださいよ」「えー、じゃあ、前野くんの前では続けるよ」恥ずかしそうに言った彼女に満足して、バイトの準備をした。21時10分のアラームが鳴り、2人して家を出た。俺の方から浅野さんに手を伸ばし、2人で手を繋いでコンビニまで向かった。バイトの帰り、いつものように迎えに行くとソープランドの男にあった。俺が小さく挨拶すると、男はこっちに駆け寄ってきた。「浅野、どうしてやめんの?」「いや、知らないですけど」「お前彼氏だろ?知らないわけねーじゃん」「いや、いつやめるんですか?」「土曜」「初耳です」「まあいいよ、あいつ真面目だから、いっぱい貢いでくれただろ」男は夢で見たようにニヤついて、俺の肩を叩いた。「よかったな」と言うと、店に戻ろうとした。「あの、すみません」「なに?」「俺浅野さんにプロポーズしようと思うんです」男は驚いていた。「は?なんで?あんな女?」「あんな女だからですよ」男はまたニヤついて俺を見た。「わかってないよ、お前」「何がですか?」「なんもわかってないさ」男はそう言うと、俺の方を見ずに手を上げて店に戻っていった。それは「じゃあな」だったり、「また会おう」を意味したのかもしれない。プロポーズの話は咄嗟に出てしまった。男の乾いた笑いにムカついてそう言った。ただ、自分が小説家になったら彼女を食わしていけるようになると思っていたのも事実だった。男が店に入り、浅野さんが店から出てきた。浅野さんはいつものように俺がドアを開けてやると「ありがとう」といった。お店を辞める話を浅野さんは言い出さない、ただ、いつものように笑って、お店の出来事を喋った。「精子が甘い時があるの」「どんな甘さ?」「いちごみたいな」「糖尿のおっさんでしょ?」「いや、大学生のが甘かったよ」「不健康そうな?」「ううん、サッカー部の体つきが良い人たち、佐野くんのも甘かったよ」「なんで佐野?」「前来たから、部活の子と」「そう」会話が止まってしまったのを察して、「前野くんのは美味しいよ」と彼女が笑って言った。彼女の笑顔を見て、また現実の重さに足がすくむ。自分の中で少しだけあった希望のことを、もう一度考え直した、ただ自分が成功すれば良い、そんな簡単な話ではないと思った。
前野
臨海線、東京テレポート駅で降りて会場に向かう。浅野さんは先について準備をしているようだった。コミケの会場は熱気に満ち溢れていて、ただでさえ暑い夏の暑さに人の暑さが加わってより一層暑さを増していた。浅野さんを見る前に、何個か売店を見て回った。そこにはいろんなものが売っている、見たことのもないもの、誰が欲しがるがわからないもの、さまざまだった。「前野くん?」売店の男に声をかけられると、そこには真由美の劇団の人がいた。「久しぶり」「お久しぶりです」真由美のスマートフォンで見た顔よりはだいぶ老けていたが、前に見た時よりも自信にみなぎった顔に俺は目を逸らした。男はそれを確認すると、わざと目を覗き込むように話を始めた。「いやー久しぶりだね、今何してんの?」この声は上の方から聞こえて来る。加藤の声なんかより遥かに上、あえてそうやって喋っているのかもしれない、そう言う意識的なものだった。「何もやってないです」「そうなんだ、小説やめちゃったの?」「才能なかったんで」男は悪意に満ちた笑顔を作った。「続けなよ、もったいないよ」「いや、いいんです」「俺さ、今ドラマやってるんだよテレビで」「真由美から聞きましたよ」「そう、よかったよかった、俺の名前なんて覚えてないかと思ったよ」実際に名前なんて覚えてなかったので、仕方なく出品されている脚本に目を落とす。「高山秀樹」そうか、そんな名前だったのか。「高山さん、おめでとうございます」「ありがとう、俺もたまたまうまくいったんだよ」「この世界はなんでもありですもんね」俺は嫌味で言ったが、彼はその嫌味に気付いたようで「そう言うわけではないけどね」と言った。そう、そう言うわけではないのだ、真由美の言ったことは間違っている。彼の名前を10年後聞くとは思わない、所詮その程度の作品なのだ、なんでも良いわけじゃないんだ、ただ俺の名前はどこにも出ることはない、その事実だけが問題なのだ。「これ無料であげるよ」彼が手元の脚本を一つ取って俺に渡した。「ありがとうございます」俺はそれをカバンの中に大事そうにしまった。「じゃあ、またどこかで」彼がそう言った。俺はお辞儀をしてその場を離れる。悔しいと言う気持ちがまだ俺に残っている。海に行ったあとちゃんと小説を書こうと思う。俺はカバンの中に手を入れてさっきもらった脚本を強く握った。その脚本はくしゃくしゃと軽い音を立ててカバンの中で小さくなった。軽くサンドウィッチを摘んだあと、浅野さんを探した、浅野さんは案外すぐに見つかった。何かのキャクターのコスプレをしていて、そのコスプレは何かわからなかった。外にはたくさんのコスプレイヤーがいて、たくさんの人集りができていたが、その中で格段に小さく、隅っこの方で撮影をしていたのが浅野さんだった。コスプレイヤーという世界も残酷で、顔が可愛いコスプレイヤーにはたくさんの人が集まっている。浅野さんの化粧は他のコスプレイヤーより明らかに濃い、その分をカバーするように、短いスカートがさらに短くなっている。浅野さんの撮影方法は変わっていて、それが少数のカメラマンを興奮させた。浅野さんは何か箒みたいなものを股に挟んでいる、その箒を近くの男に持たせ、自分の身体が浮くように持ち上げさせた。浅野さんのパンツには箒が食い込み、浅野さんの手は震えている、カメラマンはあり得ないぐらいのローアングルでパンツの中を撮影する。本来なら役員の人が注意するはずの行為は、会場の隅ということもあり許可されている。誰も浅野さんの白い顔を見ない、浅野さんが飛び切りの笑顔でいることを周りのカメラマンは知らないようだった。その笑顔の意味はやっぱり今の俺にはわからない。それでも笑っているから笑顔というものがいかに嘘をつくのかわかる。もしかしたらその嘘が本当に変わってしまったのかもしれない。彼女の笑顔はそう思わせる。話しかけられなかった、俺はただその笑顔を見守ることしかできなかった。彼女に渡されたカメラで遠くから彼女の笑顔を撮った。何枚も撮った、震えた細い手や、短いスカートは画角に入れずに、ただ真っ白な顔を会場では1番安いだろうカメラでフィルムが切れるまで何枚も。カメラマンは彼女に飽きたようで、他のコスプレイヤーに移っていった、彼女は笑顔をやめて、コンクリートの壁に背中をつけて座った。俺は急いでプラスチックカメラのネジを巻いた、もうフィルムが切れてるカメラから小さなプラスチックの四角から彼女を眺めた。一枚だけ写真が撮れた、フィルムは切れていなかった、最後の一枚だろう、カシャという音でその世界が切り取られたような気がする。彼女が別の世界の人間から現実の人間に戻ったその顔は化粧の白さをより一層白くさせ、唇には赤みが増す。目の輝きはおそらく涙で作られている。ふとした時に感じる彼女の目の奥のもう1人の彼女がそこには映っている。人間が必死に生きた時の表情を切り取ったこの写真を俺は忘れてはいけないと思った。きっと何回もこの写真を確認するだろう、そして、彼女の正体を探るだろう。
「前野くん」彼女が俺に気づいて、笑顔で手を振っている。俺は彼女に駆け寄る。「撮影会もう終わっちゃった」「知ってるよ」「見てたの?」「いや、今浅野さんに気づいたよ」「そっか、どう?かわいい?」「可愛いよ」「良かった」「帰る?」「うん、もう疲れちゃった、もう全部終わった」彼女の笑顔には疲労が含まれている、ずっと見せなかった顔をしている、彼女の夏は終わってしまったようだった。2人で荷物をまとめて電車に乗った。メイクは気に入ってるようで、そのままにしていた。そのまま長い間電車に揺られていた。彼女は眠っている。自分の中で決心がついていた。俺は夢の続きを見なければならない、力強く目を閉じ、力強く彼女手を握った。
夢の中で、俺は男と話をしている。「おかえり、で、船を買う気にはなったかい?」「いらない」「そうか、じゃあ、ずっとこの島にいるのか?それともお前だけ、違う島にいくのか?」「船を見せてくれないか?」男はまた、俺がそういうだろうと予期していたように言った。「作れないよお前にこの船はな」「どうして?」「よく見ろよ、この船、何でできていると思う?」男は船の方に頭をふった。その船は白い、真っ白な船で所々青やピンクの色がついている。その色はどこか豪華で、男が作ったようには思えなかった。しばらく眺めていると、その船が何でできているかわかった。それは骨だ。色の部分はおそらく女の爪だろう、たくさんの手や足、背骨、肋骨、頭蓋骨までもが、うまく船の形になっている。凹凸のある船の底は何回かの渡航で削られたように丸くなっていた。「この船に乗った男や女が骨になっているのさ、俺は乗らなかったからな、海に出ても手足を失っただけで済んだよ。島につけないやつはみんなこうやってこの船になるのさ」「そうか、なら簡単な話だ」「なにが?」男の顔から笑みが消える。「俺の腕を船にすれば良い、俺は自分の腕を描くことができるからな」「そうか、そうだったな、お前はそれができる人間なのか」男はさっきより一層強く声を出して笑った。しばらく笑って、男は言った。「そうか、でも島はどうする?島は見えないままだ」「俺はあそこにある島には行かないよ、もっと違うところに島はあるはずなんだ、そこまで船を押すさ」「そうなのか、やっぱりお前とは見てるものが違うな」「いや、それは違う、見ようとしていないだけだ、見ようとすることを忘れているんだ、そうするうちに手足がなくなって、海に行けなくなってしまうんだ」「そうか、やっぱりお前はまだ若いな」男はそういうと笑うのをやめて、真剣な顔で言った。「船ができたら、見せにきてくれ、目が見えないが、船の色や形を言葉で教えてくれ、そういうの得意なんだろう?」「ああ、いいよ、完成したらここに戻って来るよ」俺は浅野さんを背負って、元にいた海岸に戻った。さっきまで見えていた島のさらに奥に大きな島が見えた、それはほとんど登って来る太陽に近いところにある。でもそこは確実にあった。俺は左腕を砂に埋めて身体を捻り始める、腕は砂に飲まれ、左肩のあたりから削れるように筋肉がなくなっていく、皮膚に痛みはなく、ただ、腕が自分の体から徐々に離れていく。そして右手で新しい腕を描いた。俺はその作業を繰り返して、何本もの腕を作った、その単純作業を浅野さんはただ見守っている。浅野さんが口を開いた。「島が見えた」「本当に?」「うん、ずっーと遠く、でも見える」浅野さんの閉じかかった目がいつも通りになっている。「じゃあ、船を作るだけだよ」俺はまた左腕を削り始めた。
前野
横浜に着いた。何度か乗り換えはあったが、その間彼女は起きているのか寝ているのかそんなぼーっとした表情で遠くを見ていた。外は少し暗くなっている。何か良いものを食べようと、レストランを探そうとしたが、「サイゼでいいよ」と言われた。もっと別の場所をお勧めしたが、「サイゼがいい」と強く言われてしまって、サイゼになった。彼女はたくさんの料理を注文した、サラダ、パスタ、ピザ、ハンバーグ、チキン、机に料理が並んだ、ほとんど全種類並んだと思う「全部食べ切れるの?」「無理だよ、だから手伝って、デザートも頼まなくちゃ」そう言って、目の前のミラノ風ドリアにスプーンを入れた。食べられるわけもなく、たくさんの料理が残ったが、彼女は一つ一つ味わって全種類に口をつけた。店員が困った顔をして彼女のデザートの注文を断ったが、「最後だからお願いします」と言った。俺は薄々この「最後」の意味を感じ取っていた。「ごちそうさま」彼女はワインを二口ほど飲んでから言った。お会計をしようと伝票を手に持つと、「私が払うよ」と言った、どうしても聞かないので彼女にお会計を頼んだ。店員さんの不機嫌な顔を見ると、彼女は満足して「ごめんね」と言った。サイゼを出て、近くのコンビニでタバコを買い、海まで歩いた。海からくる水着の若者とすれ違いながら、海の匂いが近づいて来るのがわかる。涼しいくらいの気持ち良い風が吹いている。外はすっかり暗くなっていて海までの道を街灯が照らす。海に着いた。家族やカップルで賑わっている場所に着く、2人は手を繋いでそこは自分たちのいる場所ではないように、海岸を歩き始めた。「賑わってる所がいいって言ってなかった?」「うーん、やっぱ静かな所がいい」「そうだね」「海始めて来たの」「どう?」「うーん、わかんない、でも綺麗だね」工場やビルの光で照らされた横浜の海は綺麗だった。人間社会の作り出す色は鮮やかで、輝かしい。観覧車がブルーにアップライトされている。でも2人はその光が当たらない暗いところに向かってゆっくりと歩いた。真っ暗なところに着いた、少しの光が海に当たっている、そこに腰を下ろす。2人の間に貝殻が落ちている。その貝殻は2人を待っていたように、1つだけその場所に落ちていた。その貝殻を彼女は拾った。「こういうの好き、こんな物でも宝物になるよね」彼女は大事そうにそれをポケットにしまった。「今日ここで寝よう」「いいけど、ホテル取ったよ?」「えーいいのにお金もったいないし」彼女は最初から野宿しようとしていたらしい、もしかしたら寝ないつもりなのかもしれない。「ねぇ、私の夢の話をしていい?」「もちろん」彼女はそういうとじっと考えて、そして急に饒舌に話し始めた。それはずっと長く息を吸って来てそれを吐き出すように。「私は前野くんと2人でプールにいるの、プールはすごい大きくて、周りにはたくさんの人がいて、浮き輪を持ってぷかぷか浮いてて、カップルや家族が、楽しそうに喋ってるの、アニメとか漫画とかバラエティ番組の話。私も前野くんに同じような話をするんだけど、前野くんのは全然面白そうじゃないの、つまらなさそうな顔をして、私の言うことに頷いてつまらなさそうな笑顔を作るの。私はプールの外に出るのかとても怖くて、前野くんの手をしっかり握るんだけど、前野くんはプールの外にでて海に行きたい、ここは狭すぎるって言うのね。周りの人はそんな前野くんを馬鹿にするように笑ったり、怒ったりするんだけど前野くんは全然聞かなくて、私がすごい困るの。それで前野くん、私を抱っこしてプールから出しちゃって、そのまま海の方へ歩いて行っちゃうの。そしたら、私の身体どんどん腐っていって、すごい匂いがし始めて、それで前野くん私を捨てて1人で海に行っちゃって、それで私はずっと泣いてるの、そしたらその涙が大きな水溜まりを作って小さなプールになっちゃうの、身体は腐らなくて済むんだけど、そこには誰もいなくて1人で寂しくて海まで届くようにずっと涙を流すの」「そっか」「うん、だから、2人で海に行きたかったの、前野くんは海に行きたいと思ってた?」「思ってたよ、でも、海に行きたいんじゃなくて、海の先の島に行きたいんだ」「そっか、やっぱ私とは違うね、私はプールで泳げればそれで良いんだもん、海深くて怖いし」「海はそういうものだから」「前野くんのは怖くないの?」「もちろん怖いけど、浅い海がある、足がついてしまうような海、そんな海から徐々に始めれば良いんだよ、海は繋がっているんだし」俺は浅野さんの腕を掴んで海に向かった。海の水は冷たく、光が当たらない海の黒さはより一層水を冷たく感じさせた。「水着バックの中だよ」「いいよ、誰もいないから」服を脱いで海岸に思いっきり投げた。浅野さんの力は弱いから浅野さんの服も思いっきり、ジーンズのベルトとの重さが、軽い服を包んで水に濡れないところまで洋服を運んだ。「少しずつ深いところにいけばいいよ」2人で海の方向へ歩く、彼女の足がつかなくなるところまで来ると、俺は彼女の身体を持ち上げた。「どう?」「裸だから恥ずかしい」「違うよ」彼女が本当に恥ずかしそうにするから俺も笑ってしまう。顔の近くまできた波は2人の身体をくっつけるように圧力をかけた、彼女の身体が俺にくっつくと彼女は恥ずかしそうに身体をくねらせ、海水が口に入り辛い水が口に広がる、それでも力を入れて彼女を支えた。彼女の皮膚は水に濡れてもその水を弾くように乾燥している、海水、そもそも水は彼女には向いていないように思える。2人の低い体温はより一層冷たくなる、それでも身体を寄せ合ってお互いの温かい部分を探した。そこにたどり着くと2人でじっと波の中で静止するのだった。精一杯2人は暑くなり、その暑さが頂点を迎えると、波が引くように2人も海岸に上がった。「ホテルいく?」「いや、ここでいいよ」「寒くない?」「服いっぱいあるから」そういうと彼女は大きなトランクを開け、たくさんの衣装を出した。その衣装は俺の身体には少し狭く、肌にしっかりとくっつくから寒さを忘れさせてくれる。この服の恥ずかしさもまた自分の体温をあげた。彼女はその服では寒いようで、両腕を袖に引っ込めて、自分の熱でさらに暖かくなろうとした。それでも寒そうだった。海岸に2人寝そべって、空を見た。空は暗い、海の底と同じくらい暗いのだ。街の光は空の星の光を曇らせた。「星が見える」俺は目を凝らして空を注意深く見た、ただでさえ視力が悪い俺には星が見えない。「どこ?」「あそこと、あそこと、あそこ」彼女は空に人差し指を向けた。何度見ても俺には見えないから彼女の言葉から星を見ようとする。「どんなの?」「どんなの?無理だよ、星の形は見えないよ」「じゃあどんな星か想像してみて」「うーん、そうだなぁ、1つは私たちがよく行く公園の光。光が当たって黒くなった虫がたくさんその光に集まるんだけど、絶対にその光は消えなくて、それでベンチに座る私たちを照らす、あの光。あっちのやつは、青色で夜の東京を空から見たような色、多分人があえて青にしてるの、だからあんなに寂しい色をしてる。最後の星は他の星とは少し離れてるの。みんなあそこを目指して、結局他の星にたどり着くんだと思う。でもたまにあの星にたどり着く人がいて、人が少なくて寂しいはずなのに精一杯、楽しそうに他の星の何倍も光ろうとするの。でもやっぱり人が少ないから、他の2つと同じようにしか光れないの」ベガ、デネブ、最後のやつはアルタイルのことだろうと思う。目が悪くたってそこにそのような星があることを学校で学んだ。その星にまつわる物語や、歴史を学んだ。ただ彼女が作り出す新たな物語もその星の物語だろうと思う。自分がそこにあるだろうと、当たり前に思っているものが彼女には違って見える。この違いに気づかずに今まで生きていたのだ。「生まれ変わったらどの星に行きたい?」「うーん、地球で良いかな、私は。もう一度同じ人生がいい、やり直しないこといっぱいあるから」「そっか」「前野くんは?」「俺も地球でいいかな、寂しいのは嫌だしね」「そうだよね」彼女が笑った、語尾のトーンが少し上がった。こっちを見た横顔に少しの街の光が反射する。オレンジ色のライトが当たっているはずなのに、彼女の顔は白さを強調した。笑顔は可愛かった、コミケの会場で見た笑顔ではない、日常の笑顔でもない、海を前にして、この特別な海岸でしか出せないような笑顔だった。もう1人の、目の奥の彼女だった。自分より遥か遠くにある感じがしていたが、いまはここにいることがわかった。2人は手を繋ぎ、瞼を閉じた。俺はたださっきまで見ていた海と浅野さんの笑顔を思い浮かべてそれ以外は何も考えなかった。
前野
目を開けた時、海の向こ側から太陽の光が顔を照らした。隣には浅野さんがいない、彼女の足跡が海に向かって続いている。俺はその足跡を追った。海は太陽の光を反射している、水色ではない、オレンジ色。遠くにキラキラと星のようなものが無数に輝いている。彼女の足跡は漣で途切れていた、最後の足跡に昨日拾った貝殻が埋められている。彼女はここから泳いだのだろう。泳いで海に行ってしまったのだろう。周りを見渡しても、もう1つの足跡はない。海にはタバコが1本浮いている、貝殻を拾うとそこにはタバコの火を消したであろう黒ずんだ跡があった。俺はタバコに火をつけた。海はセンチメンタルな気持ちにさせる。波。水の冷たさ、貝殻、広さ、風、音。タバコは少し水分を含んで甘く、その匂いは海の風に攫われる。タバコを吸い終わると、彼女の貝殻に押し付け、海に捨てた。海は何かを終わらして、何かを始めさせる場所だ。俺は引き返した。彼女の足跡を横目に見ながら力強く、砂浜に足跡をつける。きっとこの足跡は波によってすぐになくなってしまう、始まりや終わりの軌跡はそういうものだと思った。カメラのフィルムだけ持ち帰り彼女の他の荷物は海に置いてきた。俺はそのまま横浜駅で牛丼を食べて、電車に乗った。今日は月曜だから22時からのバイトだ、サラリーマンに押し潰されそうになりながら、彼らが働く東京で電車を降りた。アパートに着いて、部屋を見渡せば、いつも通りこじんまりした湿った部屋だ。彼女の持ち物は1つもない、多分あの大きなトランクに全て入ってしまうような、少量の荷物しかないのだろう。海水で乾いた皮膚をシャワーで元に戻し身体についた砂を落とす。緩くて弱いシャワーの水はは髪の先から爪先までをゆっくりと洗い流した。タオルで叩くように水分を取り、ベッドに入り、薄いタオルケットにくるまった。瞼を閉じると、旅の疲労が全身を襲った。彼女のことは考えてもわからないし、もしかしたらわかっているがそれ以上でもそれ以下でもない問題なのだ。人生に疲れたメンヘラ女が海に行った。それだけの話なのだ。アラームをセットするためにスマホに手をかけた。LINEを開いたが誰からの連絡も入っていない、浅野さんのメッセージは、一枚の写真が送られて終わっていた。その写真はタチコマのコスプレをした写真だった。後ろの背景からこのアパートであることがわかる。洗面台にしか鏡がないから、スマホを立ててタイマーで撮ったものだろう。気がつくと俺の手は睡眠薬に伸びていた。3錠飲んだ、自然と落ち着いて、後から身体が軽くなった。それでも寝ることはできずにもう1錠飲んだ。すぐに4錠目の効果は訪れず、残りの薬を全部飲んだ。そこで記憶は無くなった。夢は見なかった。目が覚めたとき、病室にいた。腕には注射針の痕を隠すように、気つく包帯が巻かれている。指には血圧を測る機会が装着され、意味のない数字が何度か変わりながら小さなモニターに写されている。その数字が動いていることで生きていることがわかった。「目覚めました?」慣れたように枕の位置を動かしながらベテランの看護婦が言った。「ええ」「3日寝てましたよ」「そうですか」真っ先にバイトのことを思い出したが、今更どうしようできないことも後から思い出した。「隣人が電話が鳴りっぱなしで不審に思って通報したんです」「そうですか」「大体死ぬ時は1日で死にますから、量が少なくて良かったですね」「ええ、あれしかありませんでしたから」「17時になったら夕食を持ってきます」「ありがとうございます」看護婦は何事ないように、モニターをいじると、そのまま隣の患者のベッドを直した。右の机にはスマホが置かれている、他の患者のように荷物はない。スマホを開いた。LINEは誰からも入っていないが、代わりに劉さんからの不在着信が9つ入っている。月曜日の22時には4つ、火曜日からは10時と22時に一回ずつ規則正しく通知が並んでいる。3日連続でバイトを休んでしまったようだった。夕食を取った後、22時の電話に出た。「すみません、病院にいて」「大丈夫ですか」「大丈夫です」「良かったです、バイトなんですけど」彼は言いにくそうに間を開けた。「大学生が深夜に入りたいって言ってて、今回みたいな事が続くと困るから」「ええ」「悪いんだけど、シフト入れられなくなったから」「了解です、荷物、ちょっとあるんで取りに行っていいですか?」「うん、明日来れる?」「いけます」「わかった、三島さんと加藤さんがいますから」「はい」電話はそれで切れた。あっさりとバイトはクビになった。これからのことを考えたが、何をするかは既に決まっていた。次の日の朝病院を出た。入院費の6万円を家に取りに帰った。アパートに着くと、隣人のドアをノックした。隣人はそもそも住んでいなかった。自分の部屋を開けると、いつもと同じ質素な部屋だった。引き出しを開けて通帳を取り出す、通帳には茶封筒が挟まれていた。中には10万円入っていた。千円札や5千円札も含まれていて、封筒は分厚かった。彼女が最後に下ろしたのだろう、彼女の時給が高いことを知ってはいたが、彼女が大金を使うところを横浜のサイゼ以外で見たことがなかった。その封筒から万札を6枚とり、また病院に向かう、その足ですき家に行った。バイト先に着くと三島さんと加藤と佐野くんがいる。「おはようございます」最初3人は黙ったが三島さんは「おはよう」と言った。「なにしてんの?」加藤が苛立ちながら言った。「すみません、病院に行ってたんですよ」「浅野みたいなこと言うなよ」「すみません」「俺今日でバイト辞めるんで荷物取りにきたんすよ」「あっそう」加藤が言った。三島さんはこういう事に慣れているらしく、またいつもの作業に取り掛かり始めた。佐野くんは知らん顔で洗い物をしている。「これからどうすんの?」加藤が言った。「俺、小説家になるんですよ」「小説家?」加藤はその単語を初めて聞いたように口を開けている。「そうです、小説家です」「まじすか、なんか出したんすか?」佐野くんが言った。「いや、まだ出してないけど、今日から書き始める」「無理でしょ、さすがに」加藤はそう言うと思っていたから、特に驚くことはない。佐野くんは「やば」と言った。三島さんが作業を終わらせて話しかけて来た。「タバコ吸っていいよ」二人はキッチンの隅に座り込む。加藤は不機嫌だったが、三島さんには何も言えないように思える。「どんな小説書きたいの?」「うーん、まあ綺麗なやつがいいっすね」「小説家、誰が好きなの?」「小川洋子とかミハイルブルガーコフとかです」「知らないなぁ、俺は江國香織しかしらない」三島さんは笑った。その笑いに別に恥ずかしさはない、ただ、その文学を大事そうに笑った。大学生の時だったら「子供っぽい、児童文学っすか」なんてつまらなく笑っただろう。「やっぱ子供の頃の出来事とか思い出しちゃうよね」三島さんの吐いたタバコの煙を見る。2人はそのタバコの煙が空に上がっていくのを辿るように、文学、歴史を辿っている。三島さんだけじゃない、浅野さんだって、全ての人には歴史がある、希望があって絶望がある。俺はその希望に、ささやかな希望になれるだろうか、俺の吐いたタバコの煙が三島さんの煙に合わさって上に登っていく。先に三島さんが吸い終わった。「じゃあ、俺仕事戻るから」「了解です」「前野ちゃん頑張れよ」そう言って缶コーヒーを俺に渡した。その冷たい缶コーヒーを持ってバイト先を出た。「ありがとうございました」バックには声が届かず、ただ入店時に流れるメロディーが流れる。その声に負けないくらい「ありがとうございました」と声を出した。佐野くんはは気づいたようで、軽くお辞儀をした。
前野
飛行機の中で、夢を見た。長らく見ていなかった夢の続きだ。
俺は海岸に立っていた。「お久しぶりです」「船はできたかい」「ええ、立派なやつです」俺は男の前に船を出し、船の端を爪で軽く叩いた、骨で出来た船は軽い音を立てる。「どんなやつだ?」男は相変わらずニヤついていた。「グラデーションになってるんですよ、下の方は少し黄ばんでいて、上の方は白くなっています」「そうか、丈夫そうか?」「まあ、近くの島にはいけますよ」「そうか、彼女はどうした?」「いないですよ、いなくなっちゃったんだ」「そうか」男は吹き出して笑った。「この船あなたにあげますよ、俺はいらないんで」男の表情が変わった。「いらない、いらないよ、俺には島が見えないんだから」
「見えるようになりますよ、あなたが望めば」「そんなことない、第一俺は手足がないんだ、何もできやしないさ」男がまた笑おうとした、浅野さんと同じような乾いた笑いだ、全てを諦めて笑うしかない人間が出す笑いだ。「前は手足があったんですよね?」「ああ、あったさ、だいぶ昔の話だが」「なら大丈夫です、形を教えてください」「どうするんだ」「俺が作るんですよ、まだ、あなたが自分の手足の形を覚えているなら可能なことです」「そうか……ただ、もう遅いさ」「遅いなんてことないですよ、まだあなたはここにいるんだから」男の目の中にある藻や草が、海の風に靡いている。乾いたところに植物は育たない、きっと彼の目の奥には誰もが持っている水があるんだろうと思った。「じゃあ、頼む」男はそう言うと、自分の腕や足の話を始めた、大地をかけた足、人を殴った血だらけの手、人に手紙を書いた震えた手、最後に愛人を抱きしめた優しい手の話をした。俺はそれを砂に書いた、初めてその作業をした時よりもはるかに慣れた手つきで、男の言葉をイメージした。「できたよ」「そうか」男は何度か手や足を擦り合わせるとまたその手足を伸ばして座り直した。「目も描きましょうか?」「いや、いいさ、目は自分で描いてみるよ」「そうか、船はここに置いていく、使わなくたっていい、誰か必要な人に渡してやってくれ」男は熱心に目を描き始める。前屈みになったことで涙が溢れ地面に水が広がる。「ありがとう」「いいえ、またどこかで」そう言って俺はその場を立ち去った。そしてそのまま、海に入る。力強く波をかき分けて前に進んだ、波は予想以上に大きく、何度も呑まれかけたが、まだ俺の身体は沈まない。ただ力を入れて前に進んだ、前に見た時よりも島は遠くの方にあった、ただそこで良いのだ、その島を望んだのだから。何年くらい泳いだだろうか。その島は徐々に近づいているのに気づいたが、それでもまだ遥か遠くにある。空を雲が覆い、嵐が来た。俺は波に流され、島がどんどん消えかかる、船を持っていても変わらなかっただろう、身体が徐々に沈んでいく、ここで終わりか、そう思った。そんな時に目の前に貝殻が流れてきた。横浜の海で捨てた貝殻だ、黒い跡が2つ付いている。その貝殻を掴むと、そこは力強く海面に反発して浮いた。そして、波に逆らうように、消えかかった島に流れていく、離してしまったら俺は死んでしてしまう、意識が途切れる中で、両手にしっかりと力を入れた。気がつくと島についていた。振り返ると、自分がいただろう島は無くなっていた、もう必要ないのだろう、俺は島に上がり、島の中に入った。真由美や高山の名前を尋ねても知っている人はいない。何人かの人は俺のことを待っていたように出迎えた。彼らは日本語ではない言語を喋っている。「前野くん待っていたよ」2人の女に声をかけられた。「ありがとうございます」なぜだか俺は流暢に喋る事ができた。「まだ27なんだってね、すごいわ」女が言った。「何を言ってるのかしら、芸術家として年齢で評価されるなんてたまったもんじゃないわ、そうよねぇ?前野くん?」久しぶりに見る女性が、自信満々に喋るので俺は笑ってしまった。「あなたたちはこの島まで何で来たの?」「何って泳いできたに決まってるじゃない」女が当たり前のことように言った。彼女もあの海を泳いできたのだろう。「船ではここにはつけないのよ」もう1人の女が言った。「この島で最後ですか?」「あら、やっぱり若いみたいね」女が笑っている、もう1人の女も笑い出した。「想像力に終わりはないのよ」「そうか、レオスカラックスはいます?」「ここにはいないわ、私たちもまだまだってことね」「今度海に連れててってくれないですか?」「まだ早いわよ」「そう、まだ早いわ」女は急に真剣な顔になり頷いた。
アナウンスの音で、目が覚めた、飛行機は空港に到着したようだった。俺はフランスに来た。書いた小説がフランスの映画になるのだ、ここから脚本家としてのキャリアも積まなければまばらない。バイトを辞めてから、俺は何度も小説を書いた、2作目で新人賞を取り、4作目で世界的な評価を得た。新人賞を取った時、真由美から「おめでとう、これからもよろしく」と言うメッセージが入っていた。その日居酒屋でお酒を飲んで、朝まで真由美の家で過ごした。真由美とはそれ以来会っていない、真由美の名前を聞くこともそれ以来なかった。高山はネットドラマを作っている、俺は全く面白いと思わないが、何人かのファンがいるようで、生活はできているようだった。日本を出る日、すき家に行ってみた。三島さんや加藤は、まだ働いていた。店内を外から眺めると、少し老けた加藤と相変わらずの三島さんが黙々と仕事をしている。挨拶はしなかった。浅野さんはあれ以来あっていない、全国の行方不明者の数は、毎年8万人近くいる。彼女がいなくなっても何ら生活が変わらないことを、その数字は表している。彼女の写真は一枚だけ手元にある。彼女のことを愛すことはできたのだろうか、彼女は愛を欲していたのだろうか、写真に映る彼女の顔を見る。白くて悲しいその顔はやっぱり彼女の現実で当時の俺には笑顔に変えることはできないだろう、ただ、今ならどうか、これからの自分なら、そんな期待を持ってフランスの地に足を踏み入れた。
浅野
海から上がった時、前野くんがいなかった。彼は私を海の向こうの無数の光と間違えたのだろうか、いつも遠いところを見ている感じがするが、目が悪いから近くを見えなかったのだろう。捨てようと思っていた男に捨てられた。そもそも前野くんとは全てが合わなかった、いつも小説ばかり読んでいて、根暗だし、話すことも変わっているし。ピロートークが海の話だった時は、訳が分からなかった。海には行ったことがなかったし、別れ話をしようと海に来たのに、なんとなく別れることはお互い感じていたのだろう。先を越されてしまった。海岸に戻り、荷物を整理した、コスプレはもう飽きていたので、そのまま置いていくことにした。最後の記念に写真を頼んでおいたのに前野くんに持っていかれてしまったらしい、仕方なく、アパートに戻ることにする。実質まだ別れていないのだし。海は疲れるだけだった、疲労が溜まっている、何度か電車を乗り過ごしたが、なんとか東京に着いた。前野くんが家にいると困るので、不動産屋にいき、同じようなボロアパートを借りる手続きをした。新しいアパートは、新しいバイト先の近くにした。前野くんの家からは遠いので会うこともないだろう。新しいアパートを、借りるまで泊まるホテル用の金を下ろし、前野くんのバイトまでの時間を潰すため、漫画喫茶にいく。20時ごろに前野くんのアパートに行った。ドアを開けた時、前野くんが倒れている。部屋はアラームが鳴りっぱなしで、手には睡眠薬が握られている。自殺をしようとしたのだろう。昔ホストと自殺をしようとした事を思い出した、2人でビルから飛び降りたのに、男は頭が潰れて、私は足が潰れた。あれ以来死について考えることがバカらしくなっていた。今目の前にいる男も、なんだかんだ言ってあのホストと同じだと思った。仕方なく救急車を呼んだ。「はい、どうなさいました」「あのー、隣の家の人が、睡眠薬飲み過ぎて倒れてるんですよ」「今どういう状況ですか」「えっと、だから、倒れてるだけです」「わかりました、今すぐ向かいます、住所わかりますか」「わかんないです」「家の近くに目印みたいなものありますか」「駅前のセブンのとこです」「わかりました」「セブンのとこで待ちます」「お願いします」電話はそれで切れた、電話越しの女に焦る様子は感じられない、多分同じような印象を向こうも持っただろう。仕方なくセブンまで行き、タバコを吸って待った。金がなくなって仕方なく前野くんを待った時の気持ちを思い出す、彼の優しさに漬け込むのは簡単だった、若いからあんな優しいのだろうか。少し罪悪感が芽生えたが、お互い様だろう。仕事のことも口出ししなかったし、結局こっち側の人間になるのも時間の問題だろう。サイレンの音が近づき、救急車がやってきた、私は救急車をアパートまで誘導する。一緒に乗るのは断った。隊員はボロいアパートを見て入院費の話を始める。死んでくれた方が金はかからないのに。仕方なく先程下ろした10万円をアパートに置いておくことにした。昨日の夜は柄にもなく変な話をしてしまった。変な男と一緒にいたからだろう。新しい男はもっとまともな奴が良い。