The difference in culture
脱線事故が起こっている最中、ボウリングなどに興じていた社員のモラルが問われている。
しかし、同様な事態が起こってもアメリカでは「個人の自由」として尊重される。勤務時間外であれば、プライバシーに属する問題となる。
これは日米両国の「文化の違い」である。
人殺しゲーム(戦争もののシミュレーションゲーム)やハリウッド映画に象徴されるように、アメリカは「最後は力づくで物事を解決させる」文化であり、人命を軽んじている。
日本はアメリカと緊密な関係にあるが、かつて総理大臣が「人の命は地球より重い」と発言した国であり、相当の文化の違いがある。
何でもかんでもアメリカ型にあわせようという風潮を危惧している。
※5/18の「多事争論」の内容を私なりに要約しました。正確な文章はTBSウェブサイトにて。
http://www.tbs.co.jp/news23/onair/taji/s050518.html
TBS「ニュース23」キャスター、筑紫哲也氏はそう語った。
何とも幼稚な反米主張ではないか、と少々唖然としてしまった。
「文化の違い」は日米間に限らず、地球上の至る所で該当するものである。当たり前の話だ。
JR西日本脱線事故の際の一部の社員の言動については様々な意見があるだろう。不謹慎だ、との声が強いようだが、それが日本の文化や国民性であり、否定する気はない。
また、それに対し、非番時の個人の自由と主張する、筑紫氏曰く「アメリカ的」な意見も否定しない。日本には言論の自由があるのだから、そういう意見があってもいい。
しかし、そんなことはどうでもよい。
まず第一に気になったのが、アメリカの文化とは「物事を力づくで解決させ、人命を軽んじている」文化なのだ、と断言したことだ。
アメリカ人が聞いたら怒るのではないか?だってアメリカは武力馬鹿と言い切ったのだから。
その根拠が戦争を舞台にした人殺しゲームやハリウッド映画ときた。
もちろん「戦争ゲーム・ハリウッド映画→人殺しに抵抗のない野蛮人国家」という単純な論を筑紫氏が述べられたとは思っていない。そういったものが受け入れられ、広く定着しマーケットとして成り立っているアメリカの土壌のようなものを「文化」として取り上げたのだと思う。その端的な例が「戦争ゲームやハリウッド映画」なのだろうが、極論過ぎないか、と素直に思った。
確かにアメリカ人は単純で派手好みでタフでガッツなマッチョと爆発が好きだからハリウッド映画が量産されるのではあるが、日本だって負けてはいない。日本のゲームだって相当過激だろう。「三国無双」なんて何百人単位で敵を斬りまくるゲームがあるのだから。
話が脱線した。本題はゲームとか映画ではない。
日米間に文化の違いがある。日米間に限らず、日中間や日韓間にもある。
日本が何でもアメリカ式に合わせる必要がない、そうすべきでない、と発言されるなら、なぜ同じことを中国や韓国に対しても言わないのか。
中国と韓国は何かにつけて「靖国神社」に対し批判する。
「A級戦犯が合祀されている靖国を参拝することは、軍国主義賛美であり、過去の戦争犯罪を反省していないことの証明だ。けしからん。謝罪と賠償を要求する」と。
靖国神社という存在は日本の文化の象徴の一つだ。中国、韓国が靖国を「大日本帝国の悪の象徴」とするのは勝手だが(ものすごく不愉快だが)、これこそ「文化の違い」である。
「文化の違い」を認め、同化を危惧する筑紫氏であれば、アメリカの問題とともに、中国や韓国の姿勢に対してもそれなりの態度で発言すべきであると思う。
中国や韓国の主張(というか言いがかり)は、「文化の違い」を超えて内政干渉である。
日本がアメリカのスミソニアン博物館やアーリントン墓地の存在を否定するようなものだ。
筑紫氏の、そういった眼前の問題については口にせず、アメリカの文化を「暴力」と断言し、批判する姿勢に対し、私は不信感と不快感を覚えるのだ。
靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。
靖国神社は、護国のために命を落とした方を祀る尊い場であると考えている。
たとえ靖国に「戦犯」とされる犯罪者が祀られていたとしても、その考えは変わらない。
そもそも極東軍事裁判自体が裁判の体を成していないのだから、「戦犯」など存在しない。
日本は「敗戦国」だから一方的に「悪者」の烙印を押されたにすぎない。
日本人の死生観は他国の理解を得られないのだろうか?
たとえ戦争で罪を犯した人であっても、死後その魂は清められる。「罪を憎んで人を憎まず」という死生観であり、大戦で亡くなられた方は平等に靖国に祀られている。
私の祖父は旧帝国海軍の将校であったそうだ。祖父は生きて帰国したが、祖父の同僚や知人の多くが命を落とされた。
我々の祖父母世代の方々の尊い犠牲の上に、今の日本の平和と繁栄が築かれているのだ。
「日本のために命を落とされた方」を祀ることのどこが軍国主義や戦争の賛美なのか。
このような犠牲を今後出さぬためにも、靖国神社の存在は大きい。
死してなお死者に鞭を打つ文化の国には、理解されがたいことかもしれない。
だが、この日本の死生観は潔く尊いのではいないか、と私は誇りにしている。
私は過去の戦争を賛美するわけではない。
戦争中なのだから虐殺とか略奪とか強姦とか人体実験とか文化の蹂躙とか人権の軽視とか、ひどいことはいっぱいあっただろう。しかし、それは日本軍も連合国軍も同じことだ。
戦争が悪ならば、戦争を導いた国策を非難すべきだし、戦争中に発生した様々な悲劇を非難するならば、犯罪者個人か軍隊、制策にその責任があるだろう。それは日本以外にも向けられてしかるべきだ。
敗戦国が一方的に断罪され、戦勝国が英雄扱いされる構図が気に食わないのだ。
ともあれ、「文化の違い」を持ち出すならば、その矛先はアメリカだけではないはずだ。
日本には尊い文化がある。いかに他国の理解を得るか、日本の外交能力の真価が問われる。
個人的な立場で言えば、私は自分のじいちゃんを否定しない、ということだ。
かといって「俺には帝国海軍の血が流れている」なんて口にするつもりもないが。
日本人として、日本の文化を誇りに思う。単純だが、大切なことだと思うのだ。
しかし、同様な事態が起こってもアメリカでは「個人の自由」として尊重される。勤務時間外であれば、プライバシーに属する問題となる。
これは日米両国の「文化の違い」である。
人殺しゲーム(戦争もののシミュレーションゲーム)やハリウッド映画に象徴されるように、アメリカは「最後は力づくで物事を解決させる」文化であり、人命を軽んじている。
日本はアメリカと緊密な関係にあるが、かつて総理大臣が「人の命は地球より重い」と発言した国であり、相当の文化の違いがある。
何でもかんでもアメリカ型にあわせようという風潮を危惧している。
※5/18の「多事争論」の内容を私なりに要約しました。正確な文章はTBSウェブサイトにて。
http://www.tbs.co.jp/news23/onair/taji/s050518.html
TBS「ニュース23」キャスター、筑紫哲也氏はそう語った。
何とも幼稚な反米主張ではないか、と少々唖然としてしまった。
「文化の違い」は日米間に限らず、地球上の至る所で該当するものである。当たり前の話だ。
JR西日本脱線事故の際の一部の社員の言動については様々な意見があるだろう。不謹慎だ、との声が強いようだが、それが日本の文化や国民性であり、否定する気はない。
また、それに対し、非番時の個人の自由と主張する、筑紫氏曰く「アメリカ的」な意見も否定しない。日本には言論の自由があるのだから、そういう意見があってもいい。
しかし、そんなことはどうでもよい。
まず第一に気になったのが、アメリカの文化とは「物事を力づくで解決させ、人命を軽んじている」文化なのだ、と断言したことだ。
アメリカ人が聞いたら怒るのではないか?だってアメリカは武力馬鹿と言い切ったのだから。
その根拠が戦争を舞台にした人殺しゲームやハリウッド映画ときた。
もちろん「戦争ゲーム・ハリウッド映画→人殺しに抵抗のない野蛮人国家」という単純な論を筑紫氏が述べられたとは思っていない。そういったものが受け入れられ、広く定着しマーケットとして成り立っているアメリカの土壌のようなものを「文化」として取り上げたのだと思う。その端的な例が「戦争ゲームやハリウッド映画」なのだろうが、極論過ぎないか、と素直に思った。
確かにアメリカ人は単純で派手好みでタフでガッツなマッチョと爆発が好きだからハリウッド映画が量産されるのではあるが、日本だって負けてはいない。日本のゲームだって相当過激だろう。「三国無双」なんて何百人単位で敵を斬りまくるゲームがあるのだから。
話が脱線した。本題はゲームとか映画ではない。
日米間に文化の違いがある。日米間に限らず、日中間や日韓間にもある。
日本が何でもアメリカ式に合わせる必要がない、そうすべきでない、と発言されるなら、なぜ同じことを中国や韓国に対しても言わないのか。
中国と韓国は何かにつけて「靖国神社」に対し批判する。
「A級戦犯が合祀されている靖国を参拝することは、軍国主義賛美であり、過去の戦争犯罪を反省していないことの証明だ。けしからん。謝罪と賠償を要求する」と。
靖国神社という存在は日本の文化の象徴の一つだ。中国、韓国が靖国を「大日本帝国の悪の象徴」とするのは勝手だが(ものすごく不愉快だが)、これこそ「文化の違い」である。
「文化の違い」を認め、同化を危惧する筑紫氏であれば、アメリカの問題とともに、中国や韓国の姿勢に対してもそれなりの態度で発言すべきであると思う。
中国や韓国の主張(というか言いがかり)は、「文化の違い」を超えて内政干渉である。
日本がアメリカのスミソニアン博物館やアーリントン墓地の存在を否定するようなものだ。
筑紫氏の、そういった眼前の問題については口にせず、アメリカの文化を「暴力」と断言し、批判する姿勢に対し、私は不信感と不快感を覚えるのだ。
靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。
靖国神社は、護国のために命を落とした方を祀る尊い場であると考えている。
たとえ靖国に「戦犯」とされる犯罪者が祀られていたとしても、その考えは変わらない。
そもそも極東軍事裁判自体が裁判の体を成していないのだから、「戦犯」など存在しない。
日本は「敗戦国」だから一方的に「悪者」の烙印を押されたにすぎない。
日本人の死生観は他国の理解を得られないのだろうか?
たとえ戦争で罪を犯した人であっても、死後その魂は清められる。「罪を憎んで人を憎まず」という死生観であり、大戦で亡くなられた方は平等に靖国に祀られている。
私の祖父は旧帝国海軍の将校であったそうだ。祖父は生きて帰国したが、祖父の同僚や知人の多くが命を落とされた。
我々の祖父母世代の方々の尊い犠牲の上に、今の日本の平和と繁栄が築かれているのだ。
「日本のために命を落とされた方」を祀ることのどこが軍国主義や戦争の賛美なのか。
このような犠牲を今後出さぬためにも、靖国神社の存在は大きい。
死してなお死者に鞭を打つ文化の国には、理解されがたいことかもしれない。
だが、この日本の死生観は潔く尊いのではいないか、と私は誇りにしている。
私は過去の戦争を賛美するわけではない。
戦争中なのだから虐殺とか略奪とか強姦とか人体実験とか文化の蹂躙とか人権の軽視とか、ひどいことはいっぱいあっただろう。しかし、それは日本軍も連合国軍も同じことだ。
戦争が悪ならば、戦争を導いた国策を非難すべきだし、戦争中に発生した様々な悲劇を非難するならば、犯罪者個人か軍隊、制策にその責任があるだろう。それは日本以外にも向けられてしかるべきだ。
敗戦国が一方的に断罪され、戦勝国が英雄扱いされる構図が気に食わないのだ。
ともあれ、「文化の違い」を持ち出すならば、その矛先はアメリカだけではないはずだ。
日本には尊い文化がある。いかに他国の理解を得るか、日本の外交能力の真価が問われる。
個人的な立場で言えば、私は自分のじいちゃんを否定しない、ということだ。
かといって「俺には帝国海軍の血が流れている」なんて口にするつもりもないが。
日本人として、日本の文化を誇りに思う。単純だが、大切なことだと思うのだ。