その問題がなんであれ、
こんな質問がよくあります。
なにかの出来事が原因で
落ち込んでしまったり、
凹んでしまっています。
そんなときはどうすればいいのでしょうか?
と。
もちろん、本人にとっては、
それぞれの事例が深刻な問題であり、
簡単に解決しそうもないように
思えるものばかりです。
その具体的な事例に関しては、
今日は触れませんが、
落ち込んでしまったり、
凹んでしまったりしたときの、
違う面からの解説をしてみたいと思います。
本人にとっては、落ち込んでいたり、
凹んでいる状態が不愉快なので、
早く≪そうではない状態≫
になりたいからこその、
この質問なのでしょうが、
問題の本質は意外なところに潜んでいます。
それは、少なくとも、
そういった相談をされる方は、
落ち込むこと、凹んでいることを
≪良くない状態≫だととらえている、
ということです。
良くないと思っている人ほど、
「早くなんとかしなきゃ!」
「いつまでもこんな感情を
感じていてはダメだ」
と思っています。
≪快≫と≪不快≫という
感情の種類で考えたら、
凹んでいる、落ち込んでいる、というのは
不快な状態です。
少なくとも≪快≫ではありません。
不快な状態になっているから
早く≪快≫の状態になりたい。
そのこと自体はごく自然な欲求です。
でも、
なにか美味しくないものを食べたときに、
「うわ、これ不味いな…」とは思っても、
「不味いと感じるのは良くない」
とは思っていません。
「この不味いと感じている状態を
早くなんとか≪しなければ≫」
とも思いません。
ただ「不味いなぁ」と思っているだけです。
そして、そのあとに
「この店に入らなければよかった」とか
「ほかに美味しいものを食べに行こう」
と自然と考え始めます。
不味い、と思った後に、次の手を考える。
この二つの思考の間に、
とくに悩みは発生しません。
どの店に行こうか、
くらいは悩むかもしれませんが。
ただ「不味いなぁ」と思っているだけ。
これが
≪感情を素直に受け止めている≫状態です。
感情は「素直に受け止めよう」と言われて
できるものではありませんが、
できているとき、とは、
ただ「不味いなぁ」と思っているだけ。
そういう状態のことを言います。
話を戻します。
ただ素直に感じているときは、
別にあえて、その感情をなんとかしよう、
とは思っていません。
でも、その感情を感じることに対して、
良し悪しで考えるような≪クセ≫が
ついていると、
「早くなんとかしなきゃ!」
「これじゃダメだ」と思ってしまいます。
自覚はなくても、無意識のうちに
そう思っているはずです。
これが思考のクセです。
あなたにとってその出来事が、
≪あなたという人が落ち込むのに
ふさわしい≫
つまり、落ち込んでしまうのも
無理ないほどの出来事なら、
ちゃんと落ち込むほうが自然なのです。
あなたという人が凹んでしまうような、
そんな重大な出来事を、
すぐに≪そうではない状態≫
になるような、
≪たいしたことがない≫ことに
しようとすることのほうが、
よほど不自然です。
悲しいことがあったときに、
ちゃんと悲しむ。悲しめる。
落ち込む。凹む。
それはあなたにとっては≪不快≫なことかも
しれませんが、
落ち込んだり、悲しんだりすることも
できないような人間に
あなたはきっと憧れることは無いと
思います。
必要以上に不自然に長く落ち込むことは
ありませんが、
あなたにとってふさわしい≪感じ方≫が
あるはずです。
「そりゃそうだよな。
あんなことがあれば凹むよな」
「そりゃ落ち込むのも無理はないよ」
そうやって自分の気持ちを肯定するのが、
自然な反応のはずなのに、
不味いと感じた感情は否定しないくせに、
凹んだり落ち込んだりしたときは、
自分の気持ちを否定して、寄り添わない。
素直に感じている感情を否定する、
ということは、
それを感じている≪自分自身≫を
否定してしまうことになってしまいます。
あなた自身の感情をあなたが否定して
しまったら、
その感情は、行き場がなくなって
しまいます。
「こんなに落ち込んでちゃダメだ」と
あなたが思えば思うほど、
その感情はあなたに認めてほしくて、
さらに≪寄り添ってもらうこと≫
を要求します。
そう感じるのも無理はない。
まずはあなたがその気持ちを素直に
受け止めて、
そう感じてしまった自分の感受性を、
≪自然なもの≫として認めてあげる。
そうすれば自然と次のステップ、
「で、なにがその出来事を起こしてしまった
原因なんだろう」
「で、どのお店に行こうか」という段階へ、
悩みなく、無理なく自然と進むことが
できます。
このあたりは、
もっと説明が必要な部分ですが、
今日の本題ではないので、
詳細は割愛します。