ムビ×ステ「漆黒天に想いを馳せる

 

※別SNSより過去記事を移行しております
※この先ネタバレしかございませんので、映画「漆黒天 終の語り」や舞台「漆黒天 始の語り」をご覧になっていない方は読まないでいただけますと嬉しいです。もったいないので。ぜひ無垢な気持ちで、あのぐるぐるする気持ちを味わってほしい…というお願いです。 
 
旭太郎が好き故に、ある種幻想をもって舞台「漆黒天」観劇に挑んでしまいまして。どうにも現実を飲み込みきれずぐるぐるしていたのですが、先日この作品について聡明な方とお話しすることができまして。そして昨日改めて映画も見ることができまして。「映画〜舞台〜映画」というループを体験してちょっとだけ整理がついたので、今の気持ちを残してみます。 
 

一つ。陽之介は愛されて育った子である。母が不在である事に引け目を感じないように、普通以上に愛されて感受性豊かに育ったのではないかしら。 
優しすぎるぐらいに周囲の気持ちが分かり、愛することを知っているからこそあれだけの門下生や幼馴染、家族に愛されている。つまりは同調してしまう才能があるからこそ、嘘がつけず、意思決定に熟考する節がある。大事なものが両天秤にかかったときには、妻が決定権を采配してきたのではないか。 

二つ。旭太郎は感情というものを胸の奥底に沈めてしまった子である。 
しかしながら、あの環境下で育ったにも関わらず、聡明で、他人を受け入れることが出来る素養がある。圧倒的な強さで周囲を惹きつける。 
笑いたい、生きたい、愛されたい、戦いたい。旭太郎が閉じ込めてしまった感情を一つ一つ受け持ったかのような、日陰で育った仲間たちと「日向よりも幸せな人生を生きるのだ」と。目的達成のために強くあるからこそ、求心力のある青年。 

つまりは旭太郎は「陽の光を浴びて生きる」なんて事は「ありえない」と思っていた。 
陽之介と邂逅するまでは。 

それぞれの正義を曲げてしまうほどの運命と欲望。お芝居の端々に宿る、荒木さんの豊かさや優しさ。旭太郎と陽之介の根っこにある「温かさ」を感じるからこそ、ゆがみの狭間に絡めとられていく恐怖にどろりと足元を掬われそうになる。 
自らはやっていないことも現実のようにフラッシュバックする、ましてや幼いころから長年お互いを見続けてきたからこそ、どちらがどちらか分からなくなる。苦汁をなめてきた人生が闇深いからこそ、全てを投げうっても手に入れてみたい陽の光があるのではないか。旭太郎自身が旭太郎を不要だと思ったのではなく、ただただ、羨ましかった。 

わたしは、記憶を失ったのは陽之介だと思っていて。 
感受性豊かな陽之介が小さな頃から見てきた恐ろしい闇は、自分だったかもしれないと疑いだし、身近な者たちですら見紛うことで混乱し、旭太郎に同調してしまったのなら。富士の死をきっかけに、命を絶つことを選んだのでは、と。 

そして第三の人物「名無し」が生まれる。それと同時に死んでしまった「ひなたのような陽之介」と「日陰者の鎹(かすがい)だった旭太郎」。 

陽之介の人生を手に入れた旭太郎は、名無しが現れるまでどのような生活を送っていたんだろう。道場の門を閉ざし、面を着け、笑わなくなった陽之介を周囲は心配したのではないか。その環境下で陽之介を心配する人々の優しさに触れ、陽の下の温かさを旭太郎は少しずつ感じ、感情がよみがえりつつあったのではないか。だからこそ、名無しが現れた時は恐ろしかった。 

何故、そんなにも生きようとするのか。 

決戦で旭太郎(自称陽之介)が名無しに問う言葉。なぜ、お前は俺のひなたの人生を奪いにきたのだと。 
そして名無しが旭太郎に伝える言葉は、まるで旭太郎が旭太郎に諭すようで。巡るメビウスの輪。つらい…。 

名無しは結局、陽之介の記憶は戻らなかったのではないかと思っています。名無しに流れてくる記憶は、陽之介の記憶が戻ったのではなく、旭太郎が見てきた陽之介の記憶。そして記憶が戻らないがゆえに、玄馬先生に吐露した言葉から自分のことを旭太郎だと思っている節がある。玖良間邸でさんざ言葉でなぶられたせいもあるのかもしれないけれど。陽之介の人格は、崖から飛び降りたときに死んでしまった。 

だから最後に生き残ったのは、陽之介でも旭太郎でもなく「名無し」なのだと私は思っています。 
日向も日陰も無くなった、漆黒の瞳と笑み。 
何故美しいと思ってしまうんだろう。 

陽の中にも陰、陰の中にも陽がある太極図のように、二人が一つの円を成したものが名無しであってほしいと思っていたけれど。二人とも居なくなってしまった。名無しはこの先どんな人生を生きるのだろう。 

この作品を見て自分自身がどう感じて、どのように生かせるのかは、まだまとまっていないです。 
ただ、やっぱりどうにも旭太郎が好き(笑) 
そして自分が日陰寄りの性分だからか、陽の中の陰が目立って見えてしまう。陰の中の陽を愛しく思ってしまう。 

負の連鎖を起こしてはならない。 
というメッセージは間違いないのだと思っているのですが、決して日陰党だけが悪いとは思えないんですよね。 

旭太郎は江戸の破落戸を一掃して、商いで陰の世界を取り仕切る、と言っていた。”お上に楯突く民衆側の正義”的な博徒の立ち位置を狙っていたならば、破落戸以外の人たちには手出ししていなかったのでは。そして討伐隊から見たら買収されたように映っていた奉行所にも、ある程度算段があったのではないかなぁと。秩序を守るには、戦いではなくて法で裁く時代にならなくてはならないから。一時的にでも裏稼業を仕切る勢力が必要だった。江戸が無法地帯になる可能性も確かにあるけれど、日陰党討伐計画を企てさえしなければ、日陰党も道場潰しをしなかった。それまでは陰の世界の攻防だった訳だから。どちらかといえば、畑違いの喧嘩を売ったのは討伐隊に思えてしまう。 
いづれにしても、剣では秩序は守れない。 

そんな事もあり、人を生かす剣…かぁ…となってしまうんです。富士の強さは陽之介を助けているとは思うけれど、どうにも自分にとっては馴染めない人であるなぁと。こういう人が同じ職場に居るとチーム戦しにくいなぁという印象(笑) 
良き妻であり、陽之介に正義の道を歩ませる力強さのある富士が遺した残念は「あのような者」に、「ひなたの陽之介(富士自身の正義)を奪われてしまった」ことへの怨念のように見えてしまうのは私の心が汚れているからですかね。 

対して蔵近は愚直にも純粋すぎる愛で、陽之介のひなたを支える「護り人」ですよね。陰なんて寄せ付けませんわオホホという富士とは違って、陰の存在も理解し内包して汚れ役だってなんだってやる気概がある。それ故に、蔵近が名無しにぶつけた怨念は「陽之介を護りきれなかった自分自身の後悔」のようにも見えます。自分自身に厳しい蔵近らしいなぁと。陽之介の身体はあれど、ひなたのような彼は居なくなってしまったから。蔵近…生きていてほしかったな。 

邑麻兄弟も真っ直ぐで気持ちいいですよね。出てくるだけでニコニコしちゃう。この子たちも生きてて欲しかったなぁ。 
ただ気になっているのは、伽羅が殺めたであろう一郎太のことを、旗本奴だと言っていたこと。あの時の日陰党は同業者と争っていたはずなので…。邑麻兄弟からすると一郎太は金物問屋から武家に迎えられた自慢の兄ちゃんだったけれど、行った先で一郎太は日陰の道に足を突っ込んでいたのかもしれない。うーん。 

日陰党のメンバーは、個人というよりは「日陰党」としてオタク心をくすぐりますよね(笑) 諸手を挙げて好きです。 
日陰者として否定されてきた伽羅や蒿雀からしたら、間違えていないと断言してくれる旭太郎は、正真正銘の鎹だっただろうなぁ。一緒に笑っていたいと言われたら、なおさら頑張っちゃう。元々生きてきた職を失って幾多未来を諦めたであろう蔭間上がり(多分)の千蛇、武士落ちした來にとっても。 

「新春 春のムビステ祭り」とか言って短編集公演やってくれないかな(笑) 「若かりし日の日陰党」物語とか大好物ですよ?闇無しで、頭空っぽで見たい。 

とかとか。 
思ってること、ばばばーっと書いてみました。 

でも今でもまだ、映画や舞台を思い返すたびに、あぁこうだったのか、おやこうじゃなかったのか…と思うところが多いので。 
荒木さんのおっしゃる通り、その日の日の心の翳り具合で答えが変わるのだと。そんな「漆黒天」という「人」のお話しとお芝居に取り憑かれてしまっております。荒木さん推しとしては、三人の目線で観ることになるので、感情が大忙しです(笑)  
そしてどのキャラクターもみーんな好き。それは、どの役者さんも自身のキャラクターのことを深く愛しているのが伝わってくるからなのかなぁと思います。みんな魅力的。 

配信ありがとうございます。 
上映続けてくださっている映画館さんありがとうございます。 
しばし休演になってしまったけれど、ちゃんと楽しんでいます。 

皆様が作り出すあの世界が見れる日を心待ちにして、物語を深く深呼吸して、ウォーミングアップしておりますね。 

魂が爆ぜるようなお芝居と、ぐらりと脳内を侵す漆黒の世界を、肌で感じられるその日を。
 

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