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さて、今回は『対馬』の歴史と現在対馬で起こっている、韓国人による『間接侵略問題』を見て行こうと思う
まず、『対馬』の歴史的経緯を見て行こう!
≫対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。島内人口は約3万2000人である(2016年現在)。
対馬の大半を占める主島の対馬島(つしまじま、つしまとう)のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において対馬島(つしま。3文字合わせてこう読むのが書紀古訓での伝統)と記述されていた。旧字体では對馬。
地政学的にはチョークポイントにあたるところから古代より国防上重視され、明治時代から、陸軍は対馬警備隊・対馬要塞を置き、戦後は1956年より航空自衛隊の海栗島分屯基地が設けられ、1961年より陸上自衛隊の対馬駐屯地も置かれ、対馬警備隊へと発展している。また、明治時代には海軍の施設が置かれたこともあり、現在は海上自衛隊の対馬防備隊も所在している。
※[重要]『旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見 つかっていない』
(峰町歴史民族資料館 資料)
縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、峰町歴史民俗資料館や豊玉町郷土館等で収蔵・展示されている。
(Wikipediaより抜粋)
ここで※[重要]の所に注目だ!!
どこぞの韓国人や韓国人議員が『対馬は韓国領土ニダ~!!』と頭の不自由な事を言っておるが、これこの通り、大陸から人が渡って来た形跡は無く、日本から初めて『対馬』に人が移住した証拠が数多く存在している(笑)
実は朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡が小数存在するが、それから新石器時代に至るまでの遺跡が[全く]存在しない!!
これは韓国の博物館の学芸員や、考古学者も認めている事だ!!
そして朝鮮半島の新石器時代の遺跡からは、何と!!『縄文式土器』と『北九州からしか取れない黒曜石の石器』が発掘されている!!
これが何を意味するか?
対馬の遺跡からも分かる様に、日本から朝鮮半島へ『移住』が行われた証拠なのではないかな?
つまり『任那日本府』が存在した証拠なのではないだろうか?
≫任那日本府(みまなにほんふ)とは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
(Wikipediaより抜粋)
更に『百済』には相当数の『倭人(日本人)』が住んでいたと言う記録も有る
≫建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。
(Wikipediaより抜粋)
この時点で、韓国人の『対馬は韓国領土ニダ~!!』は完全に嘘なのが分かるよな?
更に朝鮮人が対馬を支配した事は、歴史上一度も存在しない!!
≫4度にわたる新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。
894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退している。
鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、※[高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し]、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。この受難を小茂田浜神社で伝えられている。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。
1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、※[高麗兵9,960人]、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
※[其中に高麗の兵船四五百艘]、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。
と記されており、※[とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。]
朝鮮王朝第3代の太宗は1419年(応永26年)6月、倭寇討伐を大義名分とした掃討戦を決意した。朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態に陥ったところ暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、7月3日に巨済島へ全面撤退した。これが応永の外寇であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる
(Wikipediaより抜粋)
と言う様に、朝鮮人が対馬を支配した歴史は存在しない!!
な?嘘八百だろ?
それどころか、何回朝鮮人が対馬を襲撃してるんだよ!!
韓国人が日本の事をどうこう言えた義理じゃ無いのは理解出来るよな?
まぁ、対馬と朝鮮半島の歴史的経緯はそんな所で、対馬は太古の昔から、日本の防衛拠点として重要視されて来た(主に朝鮮人や支那人の攻撃に対して)
それは現在でも変わらないが、そんな対馬に対して『韓国人』が、『対馬は韓国領土ニダ~!!』と世界中に嘘を付き、更には『観光を理由に、対馬の企業(主にホテル)や土地を買い漁る』と言う『間接侵略』を行っている!!
次回に続く!!
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