こちらにも
世の中は中道がよろしい。
あまりにも世間の常識から離れると
右翼か左翼にされてしまう。
それに極までついてね(笑い)
極端はよろしくな
と言いながら、こういう非常識なはなしに賛同するんだなあ
あなたは極右か極左か?
さて、極端左翼としてはあの世について記事にしたいのですが
いかがでしょうか?
夏が来れば思い出す~~♪
尾瀬じゃないですよ。
香取線香でもありません。
あの世ですよ、霊界の話。
ひとは死んだらどうなるの?
昔っから聞かれる話ですが。これを極端左翼派(笑い)としては
そんな非科学的な事は考えもしないぞ!
いや、考えるのも嫌だ。
とは、いえ・・・極端に走れば素に戻る
陰極まれば陽に転ず
極左(きょくさ)も極右も、行き過ぎると素へ戻されるようですね。
にんげんも
極まれば、あの世に転ず(笑い)
そこで、前触れはぶれっぱなしの話で何が何だかよく分からないでしょうね。
はい、書いている本人もよく分からないのですから(笑い)
ただ、儀式としてイキナリ引用転載じゃ、あまりにも露骨なモノで
あえて、入れてみたモノです。
もちろん、あなたはこれを読んでいないでしょうが。
これからが本番です。
前戯代はお安くしておきますよ。
たとえばわたしんちの電子書籍版などで肩代わりしてくださっても
和紙はちっともかまいません。
宗教で教えられた事は地球の狭い地域での常識が多いようです。
位牌とかお墓にとらわれている意識は「とらわれの意識」なのでしょうね。
宗教は役に立つことと同時にとらわれの意識を植え付けられる事もあり。
本当の宗教は「卒宗教」「卒教祖」を教えるものでしょう。
いつまでも在学させるというのはその学校からいつまでも卒業出来ないことであって依存させるというものです。優れた指導者ほど「私から離れなさい、自分と同等になれるのですから、はやく学校から卒業出来るようになりなさい」と教えるのでは?
教えは教義となっていつまでも大切にされるものもあるが、全てそれだけでは無いとね。
http://cecye.com/blog/2012/08/02/how-to-deal-with-deceased-people-part-1/より始まります
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
Q&A 亡くなった人々への対応について Part 1
これは、現在の東洋の宗教観から見ると、少し過激な考え方も、かなり入っ
ているような見解になるのですが、現在、地上の世界で生きている人が、亡くなった人々に対して、どのような態度をとるのが、霊的に、最も正しいのか、とい
うと、大まかに言って、だいたい、以下のようなことが言えます。
1、地上の世界の人々は、すでに亡くなった人々のことを、あまり強く縛りすぎてはいけないし、また、すでに亡くなった人々も、地上の世界の人々のことを、あまり強く縛りすぎてはいけない
まず第一には、現
在、地上の世界で生きている人は、もうすでに亡くなった人々のことを、あまり強く縛るようなことはしてはいけないし、また、すでに亡くなった人々も、たと
え、いくら自分が、大変だからと言って、地上の世界で生きている人々のことを、あまり強く縛りすぎるようなことはしてはいけない、ということです。
これは、現在の日本や中国のように、先祖供養の盛んな地域では、そう簡単には、なかなか受け入れられないような考え方になるのではないか、と思われるのですが、本当は、たとえ、誰か人が亡くなったからと言って、そうして亡くなった人の後に残された人々に対する、何らかの精神的なケアのようなものは必要であっても、もうすでに亡くなった人々に対する霊的なケアというのは、実際には、ほとんど不必要なところがあったのです。
実際、今日、いろいろな所で行われているような、すでに亡くなった人々との霊的な交流では、そうして、残された地上の世界の人々、つまり、特に身近な存在
であった、亡くなった人の伴侶や親や子供や友人などに対する、慈しみやねぎらいの言葉は、よく聞かれるのですが、それ以外の宗教的な感想、つまり、「お盆
や彼岸の供養が効いた」、とか、「法事が最高だった」、などというような、霊界の人々の発言というのは、ほとんど聞いたことがないのです。
ですから、こうした霊的な状況から、客観的に考えてみる限り、すでに亡くなった人々が、時折、地上に残した人々のことを、懐かしく思い出したり、深く考えたりすることはあったとしても、そうした亡くなった人々に対する、地上の世界での宗教的な行事による霊的な効果というのは、実際には、ほとんどない、というのが、現実なのではないか、ということです。
特に、亡くなった人々が、非常に迷惑に感じていることは、時々、地上の世界において、その人のことを思って、ものすごく強い念いを向けて、読経をしたり、何らかの宗教行事を行ってくることなのですが、
それというのは、これは、みなさんが、どこか遠くに、個人的な旅行や、仕事で出張に出かけた時のことを考えてもらうと、非常に分かりやすいと思うのです
が、つまり、亡くなった人々というのは、死後、幽界や地上の世界付近の、何らかのごちゃごちゃに巻き込まれていない場合には、たいてい、ある程度、落ち着
いた霊界において、次から次へと、いろいろな新たな知識を得たり、新たな体験を積み重ねながら、はっきり言うと、もう全く別次元の世界の存在になってゆき
つつあるので、それゆえ、そうした時に、もうあまり興味も関心もなくなりつつある地上の世界から、非常に強い執着の念を込めて、いろいろなことを、強く念じて、しゃべりかけてこられたりすると、非常に迷惑な感覚を持つことが多かったようなのです。
ですから、私が思うには、もし、みなさんの身近な人が亡くなった場合には、時折、その人の写真や思い出の品を見ながら、何となく、その人のことを思い出し
たり、その人のために、ちょっとした、祈りを捧げるぐらいのことはしてもいいのかもしれないのですが、それ以上のこと、つまり、あまり強い念を込めて、その人の名前を呼んで、一生懸命、読経する、とか、その人のために、何か高額のお金を払って、大きな宗教行事を行うようなことは、本当は、あまり必要ないようなところがあったのです
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 2
2、霊的に、ある程度、進化した惑星では、たとえ、誰かが亡くなったとしても、その後、その人が、次の「霊」としての人生に、完全に移行したことが、はっきりと分かった段階で、以前の、その人の肉体は、ほぼ何も残さないような形で処分してしまうことが多い
次には、これは、現代の社会では、まだ、とてもではないが、あまり受け入れられないような考え方になるのではないか、と思われるのですが、実は、現在の世界で、非常にたくさんの土地を使って、作られている、「お墓」の存在というのが、霊的に見ると、本当は、あまり必要ないようなところがあるのです。
そうは言われても、東洋では、亡くなった人を、火葬にする習慣があるので、多くの人々が、その時、残った骨を、できるだけ、丁重な形で、何らかのモニュメ
ントの中に残しておきたい、というような気持ちを持つのは、私も十分に理解できるのですが、ただ、これは、冷静に考えてみれば、誰でも分かると思うのです
が、亡くなった人自身としては、もうすでに、肉体を離れて、「霊」としての生活に入っているので、その際に残された「遺体」というのは、言ってみれば、全く必要のない、完全に抜け殻のような存在になってしまっている、ということなのです。
ですから、実は、現在の地球のような低次元領域にある惑星であっても、霊的に、ある程度、進歩した惑星では、誰
かが、何らかの理由で亡くなったとしても、その人が、次の「霊」としての人生に、完全に移行したことが、しっかり確認された場合には、その後、いつまで
も、その人の遺体を残しておくと、いろいろ問題が生じることが多いために、何らかの手段で、ほぼ完全に、自然のままの「無」の状態にしてしまう、つまり、
もっとはっきり言うと、全く何も残らないような形で、処分してしまうことが多い、ということなのです。
ただ、現在の
地球では、「それでは、亡くなった人も、残された人も、気持ちの整理がつかない」、ということになってしまうと思うのですが、しかし、霊的に、ある程度、
進歩した惑星では、誰かが亡くなっても、「今、その人は、霊的に、どうした状況に置かれているのか」、というのが、わりと、すぐに分かると共に、もし、何
らかの混乱に巻き込まれていると判断された場合には、すぐに、何らかの手が打たれることが多いために、多くの人々の感覚としては、たとえ、誰かが、肉体的
に亡くなったとしても、その後、その人が、スムースな形で、霊界での生活に移行していることが分かったのであれば、その後は、必要な手続きの後、その人の
残した遺体は、ほぼ何の跡形もない状態になるように処理してしまうことが多い、ということなのです。
ところで、キリスト教圏だと、「最
後の審判の時に、再び、生き返るから、その人の遺体を、どうにか、できるだけ、そのままの形で残しておかないと困る」、というような心配をする人がいるか
もしれないのですが、これは、前にも少し述べましたが、要するに、それは、人間や生物の生まれ変わりが、全くない、という前提での話になるので、もし、人
間や生物の生まれ変わりがあるのであれば、何も、最後の審判の時に、再び、ボロボロの死体を再生して、復活させて、生き返ってくる必要なんて、全くない、
ということなのです。
つまり、たとえ、最後の審判のようなものがあったとしても、人間や生物の生まれ変わりが、頻繁に起きているのであ
れば、何も、棺桶のふたを、ガタガタと、こじ開けて、生き返ってこなくても、どこかの幸せなカップルの間に、再び、可愛い赤ちゃんで、生まれ変わってくれ
ば、それで済むことですし、実際、これは、最近では、もうすでに明らかになっているようなのですが、歴史上のイエスも、別に輪廻転生を否定していたわけで
はなかったようなので、元々のキリスト教も、本当は、そうした見解をとっていたのではないか、ということなのです
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 3
3、
長い間、一部の裕福な人々を除き、多くの貧しい人々は、日々、生きてゆくだけで、精一杯だったので、盛大な葬式や供養を行ったり、立派な墓を作るようなこ
とは、全く出来なかったのだが、近現代に入り、多くの人々が、やっと、ある程度、豊かな生活を送れるようになると、その精神的な反動で、あちこちで、盛大
な葬式や供養を行ったり、きれいな立派な墓を建てるようになった
それでは、現代日本のように、どの人も、どの人も、誰かが亡くなるたびに、片っ端から、できるだけ立派なお墓を建てようとしてゆくような状況に関して、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、私が推測するには、おそらく、次のようなことになります。
まず、これは、現代人の感覚ではなく、一昔前の多くの人々の感覚に合わせてみないと、なかなか、よく分かりづらい感覚になってきてしまうのですが、特に日
本のように、戦後、急速に、何もかもが豊かになって、多くの人々が、そこそこ、リッチな生活ができるようになったような国というのは、それは、言葉を変え
ると、ほんの一昔前までは、ほぼ8~9割の人々は、単に貧しいだけでなく、生活も非常に不安定で、毎日、何とか生きてゆくことだけで、精一杯の時代が、非
常に長く続いてきた、ということなのですが、そうした状況では、とにかく、今生きている人間のために、何かすることが、第一優先になってしまうので、も
し、誰かが、大怪我をしたり、大病にかかった場合は、もうすぐに死を覚悟しなくてはならなかったし、それから、もし、その後、その人が亡くなってしまった
場合には、大金と時間をかけて、手厚く葬るなんて、ほとんど出来ずに、たいていの人々の場合には、家族や親族達の心配や悲しみは、ともかくとして、この世
的には、「まあ、最低限のことをしたら、お金も時間もかかって、とても大変なので、適当に、大勢の死者が埋めてある所に、一緒に埋葬しておけばいいか」、
とか、「葬式をして、火葬にしたら、もう後は、骨しか残らないから、近くの簡単な親族共同墓地のような所に、一緒に入れておけばいいか」、というような具
合に、はっきり言うと、どの人も、どの家も、かなりお粗末、というか、かなり適当な、かなり心残りの死者の弔(とむら)いしかできなかったような時代が、
非常に長かったのです。
ですから、多くの人々の潜在願望としては、「我が家も、お金があったら、武士やお金持ちのように、きれいな立派
な石造りのお墓に葬ってみたいな」、とか、「いつも適当な供養ばっかりだったから、自分の家も、一度でいいから、武士や貴族みたいに、盛大な葬式をやっ
て、それから、何回も何回も、立派な法事をやって、ものすごく丁重に、亡くなった人を葬ってみたいな」、とか、「無縁仏の墓地みたいな所じゃなくて、ちゃ
んと名前や戒名が書いてあって、しっかり管理されてる、お墓を作ってみたいな」、というような気持ちが、何百年、何千年と、溜まりに溜まっているようなと
ころがあったために、近現代に入り、多くの人々が、そこそこ、物質的に豊かになってくると、やがて、ここぞとばかりに、それまで自分達としては、全くやっ
たことがなかったような、言ってみれば、生きている人間には、ほぼ不必要な超贅沢、つまり、もうすでに亡くなってしまった人々のために、「きれいな立派な
墓を設ける」、とか、
「ものすごくお金のかかるような、盛大な葬式を行う」、とか、「何度も何度も、丁重に法事を行う」、というようなことを、あちこちで、たくさん、やり出す
ようになっていったようなところがあるのです。
日本の場合、それは、明治以降、普通の庶民が、だんだん、裕福になってゆく時代と、それ
から、特に戦後、ほぼすべての日本人が、かなり物質的に豊かな生活ができるようになった時代に起きた、ということなのですが(それ以前の時代の人々のお墓
は、いったい、どこにあるのか、ということすら、全然、分からないようなものが、とても多いです)、そう考えてみると、ちょうど今頃の時期というのは、そ
うした感覚のピークを過ぎた辺りの時代になっているので、最近は、多くの人々、特に若い人の感覚としては、だんだん、そうした、お墓や葬式や供養というも
のに、あまり強い関心を示さなってゆきつつある、というような、ちょうど時代の曲がり角に当たるような状況になってきているのではないか、ということなの
です
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 4
4、霊的に進化した惑星では、「死の象徴」に当たるような、「墓」を作る習慣や、亡くなった人の魂を、何度も何度も、地上の世界に呼び寄せ、引き戻すような霊的な働きを持つ、「葬式」や「供養」を行うような習慣は、ほとんど存在していない
さて、こうした観点で、もう一度、お墓というものについて、考え直してみたいと思うのですが、特に、ここ百年ぐらいの間の時期というのは、こうした事情
で、多くの人々の潜在願望の実現ということで、非常にたくさんの、非常にきれいな、しっかりとした、お墓が作られたり、非常に盛大な葬式や供養が営まれて
きた、ということなのですが、実は、先ほども述べたように、霊的に見た場合、その人の霊が、肉体から、完全に離れてしまった後、いつまでも遺体を、地上の
世界に置いておくと、いろいろ問題がある、と述べたのと、ほとんど同じような理由で、お墓の存在に関しても、霊的には、ほぼ不必要なところがあった、とい
うことなのです。
お墓が不必要な理由としては、大きく三つあるのですが、まず第一には、本当は、霊的には、亡くなった人に用事があるな
ら、亡くなった人に、直接、コンタクトすればよいはずなので、基本的に、そうした、もうすでに亡くなった人の魂の抜け殻にあたる、遺体、及び、遺体を置く
ためのモニュメントというのは、全く不必要なところがある、ということです。
第二には、お墓というのは、霊的には、「死」の象徴、もしくは、「死」のモニュメントのような扱いを受けることになるので、本当の「幸福」や「生命」の尊さを尊重する、宇宙的な霊的な価値観では、ほとんど尊重されていない、ということです。
第三には、これは、現在の地上の世界では、まだ、あまり知られていないのですが、実は、お墓を作る習慣というのは、前にも述べたように、この世界が、次元
陥没して、低次元宇宙に属するようになってから、出来た習慣であるので、現在の地球が、まだ高次元宇宙に所属していた時代には、そうした、お墓を作る習慣
自体が、全くなかった、ということです。
それでは、いったい、どうやって、高次元宇宙の人々は、人生の最後を迎えていたのか、という
と、それは、わりと簡単で、その時代の人々は、自分が、その世界で、学ぶべきことや、やるべきことを、しっかりと果たした段階で、パッと消えるような形
で、より高次元の生命の世界に還り、人生の区切りを迎えていた、ということなのです。
それが、現在の地球のように、低次元宇宙での生活
を送るようになってからは、この世界には、突然の思いがけない「死」というものが存在するようになった、ということなのですが、こうしたことからも、よく
分かるように、実は、「死」という概念、それから、そうした「死」という概念に基づく、「墓」という存在自体が、霊的には、まるで、一つの「死の宗教」の
ような扱いを受けるようなところがあったのです。
つまり、他の動植物には、そうしないのに、人間の場合にのみ、死んだら、墓を建てた
り、祭ったりするような宗教習慣があるのは、本当は、霊的に非常に盲目になった人々、つまり、死んだ後に、その人の魂が、どこにいるのか、ということす
ら、よく分からなくなった人々が、大量に出てくるようになったことと、非常に深い関係がある、ということなのですが、実は、こうした、死者の墓を作り、死
者の葬式や供養を、一生懸命、行わせるような習慣を作らせたのは、光の勢力の側の神仏とは、全く関係なくて、闇の勢力の側であった、ということなのです。
ですから、霊
的に、ある程度、高度に進歩した惑星では、基本的に、たとえ、誰かが亡くなったとしても、その人の霊が、霊界に、しっかり移行したのが確認された段階で、
遺体に関しては、その後、いろいろ霊的に呪縛されたりしないように、ほぼ完全に姿形がなくなるような形で、丁重に処理して、物質的には、なくしてしまうと
共に、当然、そうした、その人の「死」に関わるような墓を作ったり、その後、何度も何度も、その人の魂を、地上の世界に引き寄せ、呼び戻すような霊的な働
きを持つ、葬式や供養のようなものに関しても、原則、一切、行わないような形になっている、ということなのです。
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 5
5、
霊的に見ると、現在の宗教形式における「葬式」や「供養」は、あまり意味がないようなところが多いので、それよりかは、できれば、生前の段階から、できる
だけ正確な「霊界」の知識を得ておくことと、自分の心に、できるだけ正直に、後悔のない人生を送ることの方が、遥かに重要である
それでは、結局、霊的宇宙的に見た場合、葬式に関しては、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、これも、現在の地球の宗教的な常識では、かなり変わった物の見方になってしまうのですが、大まかに要約すると、以下のような感じになります。
まず第一には、これは、考えてみれば、全く当然の話なのですが、現在の時点では、かなり信頼の置けそうな一部の霊能者の話や、それから、臨死体験の報告か
ら、冷静に考えてみる限り、この地上の世界において、肉体的な死を迎えて、「霊」としての生活に移った人々の感覚としては、「地上の世界での葬式や供養
を、ものすごく、ありがたがっていた」、とか、「宗教家の儀式は、本当に最高で、それで、いっぺんに成仏してしまった」、というような話は、残念ながら、
ほとんど聞いたことがないので、霊的な実態としては、誰かが亡くなった後に、宗教的な葬式や供養というものをやっても、実際の霊的な効果というのは、ほと
んどないのではないか、ということです。
第二には、これも考えてみれば、非常に不思議な話になるのですが、亡くなって、霊としての生活
に入った人にとっては、初めてのことばかりなので、多少、ドギマギするような状況になるのは、ある程度、当然としても、基本的に、その人自身の感想として
は、「あれ、さっきまで、大怪我で体が痛くて、大変だったのに、今は、体が痛くもないし、ものすごく軽いや」、とか、「自分が思った場所に、パッと移動で
きるんだ」、とか、「こちらからは、地上の世界の人々の様子が、はっきり分かるのに、地上の世界の人々からは、自分のことが、全然、見えないなんて、不思
議だな」、などという具合に、言ってみれば、霊界や、霊との生活と言っても、ただの他人事の霊界物の話ではなくて、もう実際の実体験になってしまっている
のです。
ところが、残念ながら、現在の地上の世界の宗教では、そうした霊界の実態や、霊としての日常体験というものを、あまりよく理解
していないことが多いようなので、お坊さんが、「南無(なむ)○○・・・・」、と、非常に尊いと言われるお経を読んだとしても、これは、客観的な風景を想
像してもらうと分かりやすいのですが、「南無(なむ)○○・・・」、と、お坊さんが、お経を、一生懸命、読む側で、すでに亡くなって、霊となった人は、
「あれは、どういう意味なのかな?」、とか、「仏様や神様は、どちらから来るんですか?」、とか、「みなさんは、心配しているけど、私は、この通り、死ん
でも、ピンピンしていますよ」、とか、「誰か一人でいいから、私の気持ちが伝わるといいのにな~」、とか、「もし、みんなに、自分が見えたら、最後のお礼
と、お別れを言うのに・・・」、などというように、結構、冷静に、あれこれ考えていることが、多いようなのです。
※その点、霊となった人にとっては、キリスト教の神父(牧師)の話の方が、普通の言葉なので、分かりやすいようなのですが、結局、「霊界」と言われる所に行くと、生前、聞いていた話と違うことが多いようなので、結構、びっくりすることが多いようです。
そうすると、いったい、どういうことが言えるのか、というと、これは、霊的には、かなりはっきりしていることなのですが、で
きれば、多くの人々が、生前において、やっておくべきことは、ある程度、趣味程度でもよいから、何らかの宗教に入信するというよりかは、あまりごちゃご
ちゃしていない、ある程度、理知的で、すっきりとした、霊界の様子や、霊としての生活についての簡単な知識というものを、あらかじめ、知っておくべきこと
だった、ということと、それから、もう一つは、後から、あまり心残りになることがないように、できれば、若いうちから、「自分が、これだけは、どうして
も、やってみたい」、と思ったことは、たとえ、少々、失敗しても構わないから、とにかく、一度はやってみる、ということなのではないか、ということなので
す。
それというのは、これは、霊界の事情が、ある程度、分かるようになると、誰もが、非常に痛感するようになること
なのですが、とにもかくにも、多くの人々が、亡くなった後に、困ったり、悩んだりしている内容のベスト3に上げられるようなことが、今述べたようなこと、
つまり、自分としては、死ぬ前は、「死後の世界なんて、全然、訳分からない」、とか、「そもそも、死後の世界なんて、ある訳ないじゃない」、などと、かな
り馬鹿にしていたにも関わらず、いざ、自分が亡くなってみると、霊界や、霊としての生活と言っても、はっきり言って、地上の世界と、大して変わらないくら
い、かなりはっきりしたリアリティーと、それから、秩序正しさと、統一された世界観が支配している世界であった、ということに気付くので、その時、多くの
人々が、つくづく考えるのは、「なぜ、自分は、地上の世界にいた時に、こんな簡単な真実について、何も知らなかったのだろうか?」、というような疑問や嘆きであることが多いようなのです。
それと、もう一つ、多
くの人々が、よくつぶやく嘆きや後悔の内容は、自分としては、常に、一生懸命、よく学び、よく働き、よく生きてきたつもりであったが、いざ、死んだ後に考
えてみると、「なぜ、自分は、あの一番、言いたかったことや、やりたかったことを、先延ばしにして、結局、何も言わず、何もしなかったのかな?」、とか、
「本当は、ちょっと、エイッっと、一発奮起すれば、簡単にできたのに、なんで、自分は、それをしなかったのかな?」、などというような嘆きや後悔というの
が、意外と多いものなのです。
その結果、そうした嘆きや後悔の念を強く抱えた人というのは、その後、霊界に還って
も、わりと短期間のうちに、何らかの機会を得ると、再び、地上の世界に生まれ変わってくることになるのですが、これも、よほど心の奥で強く望んだことでも
ない限りは、再び、地上の世界のいろいろな誘惑や障害に負けてしまい、そうした人生が終わると、なぜか、また、同じような嘆きや後悔の念を持つことも、結
構、多かったりするものなのです。
それゆえ、私は、誰かが亡くなった後に、盛大な葬式や供養をやるくらいなら、できれば、それ以前に、地上の世界で生きているうちから、これは、別に何らかの宗教に属さなくてはならない、というような意味では、全くないのですが、霊
界や霊の生活について、書かれた、わりと信頼の置けそうな本を、最低でも、数冊程度は、読んで、そうした霊界の予備知識を得ておくと共に、それから、も
し、突然、地上の生命が終わったとしても、決して、後悔することがないように、「これだけは、自分がやりたい」、とか、「一度でいいから、やってみたかっ
た」、ということに関しては、できるだけ積極的にトライしてみることが、とても大切なのではないか、というように、率直に感じております。
さて、そうすると、現在、営まれている葬式の未来像というのは、いったい、どのようなものになってゆくのか、というと、もし、多くの人々が、わりと簡単
に、亡くなった人とも、普通にコミュニケーションできるような状況になっているのであれば、たとえ、誰かが亡くなったとしても、エンエンと大きな声で泣い
て、悲しむ必要は、あまりなくなってくるでしょうし、それから、あまり格式ばった儀式をやっても仕方ない、ということになってくるので、おそらく、現在の
ような形で、スピリチュアルな知識が、自然と普及していった暁には、せいぜい、やっても、スピリチュアル(霊的)な要素を持った、亡くなった人の「お別れパーティー」のような催しをする程度のものが、だんだん主流になってゆく、というような流れになってゆくのではないか、というように、素朴に考える次第です
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
宇宙時代になると
お墓や戒名などは不要なものとなりそうですね。
(ちなみに私の妻も戒名は付けませんでした・・・戒名など自分で作れるのですが、あえてつくりませんでした。 活きている時に呼んでいた名前をそのまま使った方がよほど愛着がありますよね。いきなり何だか分からない戒名をつけて貰ったってねえ
お墓はいちおう、骨を収めるために小さなものを作って戴きました。「○○の墓」ではなく、「愛光楽秋遊」(ありがとうと読ませる)で、夫婦二人の名前が一文字ずつ入っています)
肉体の死という別れは非常に辛い悲しいものです。
いくら上記の事を知識として知ってはいてもです。
それがこの地上に肉体として生きている者の特権。つまり喜怒哀楽を味わえるのですから、思いっきり悲しんで泣けばよいのでしょう。
でも何時までもその感情を引きずっていても、向こうのひとは「迷惑」なのです。
思い出してくれるのは良いとしても、あまりにも感情移入されてもね。
ただ今後は、葬式の形式はずっと明るく楽しいものになりそうです。
まあ、ボクはどれも要らないと思っています。というよりしてくれる人も居ないしね。
もともとお釈迦様がお墓や戒名の必要など教えていないのですから、後々の世になってから作られたに過ぎない話で、いわゆる慣習みたいなものでしょう。
思想とそれがくっついて、さも必要であるかのように教え込んだ人たちも居たわけですが、それに庶民が共感して出来たのでしょうね。
大切に思っていた人が居なくなった悲しみをそういう形で自分を慰めるのと宗教の教えが一致して居たのでしょう。
それは「供養しなければあの世で救われない」などという教えです。
心情的には親しかった人を思い出して、あの世の事もよく知らないために供養したりするために戒名やお墓という形のあるものに心をこめたのでしょう。
でも、それが悪いというわけではないのでしょうが、それにあまりにも拘りすぎてしまっていると不要なことに心配したりするものです。
出来る立場の人はそうであっても、出来ない人がそれで悩み苦しむ必要はまったくないのです。
こちらからの供養があちらにすごく影響するかのように教えたのは宗教です。
いや、本当の霊界を知らずに俗世のうわさ話程度の天国地獄論を庶民に教えて、この世で良いことをしなさい。悪い事をしたら・・という単純ながら因果応報の原理を教え込んだのでしょう。
しかも人間はそう思えばそういう事実を見てしまうという創造主みたいな力がありますので。
あの世を見てきた人の話にそういう場面も出てくるのでしょう。
戒名の歴史を調べればよく分かるでしょうが、生きている内に仏弟子が戴くものですね。
お墓もお釈迦様がどこにそんなものを作れと言われたか?
イエス様も同様でしょう。
お経などは「生きている間に聞く教え」であって死んだ人に聞かせてもね。
だいいち、生きているひとにも分からないのが今のお経文でしょう。
(よく耳を澄ませて聞いていればおぼろげに分かるでしょうが、そんなたいした事言ってないような 笑い)
こうして、薬屋さんから始まって牛乳屋さんエトセトラ・・そして宗教・・・
これだけ要らん要らんっと言ってたら
オマエこそ要らん!
となるだろうなあ・・・
はやく逝くか・・