先月、妻の友人が妻のお墓参りに行きたいと言って遠くから来られました。
ボクは妻のツマなのでお供しました。
お墓には妻は居ないとは分かっていても、その「気持ち」が大切なのだと思いました。
なぜお墓には居ないのでしょうか?
答えは
「千の風」です。 以前流行りましたね。 (それかよ)
お釈迦様は「お墓も戒名も一切言っていないのです」という話を聞いたのですが、もしそんな話があるという資料があったらコメント入れてください。
前提として、お釈迦様の教えに「お墓参りも仏壇も戒名も必要」という話が無いものとして始めます。
それは以下の引用文で十分かと思いますが、時代なんですね、結局。
創作なんです。
大昔はお墓など作れる庶民は極少数だったそうで、いや、近年になってからでしょうか?
石ころを置いたりして目印にしたのは。
禁教となったキリスト教信者を探り出すためにもお寺さんが使われていた事も手伝って
いつの間にか、お盆にお墓参り。 仏壇に戒名入りのお位牌・・・
そこには坊さんが関与する、一種の管理と飯の種のように繋がっていたのかも知れません。
この世は仮想現実世界とはいえ、実感120パーセントですから、あちらの方が夢だと思うほど、よく出来た世界ですが、このお墓参りをするということやお位牌をまつるという行為は、「あの世を肯定」しているという事ですね。
絶対信じていないあの世ではなく、なんとなくあると思うあの世という中途半端な意識なのでしょうか。
夫、引用文忘れておしまいにするところだった
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
http://blog.livedoor.jp/rala666/archives/53702026.html
人間は新たなる制度や慣習を次々に生み出しながら、歴史は塗り替えられてきました。
権力の移り変わりの歴史とも言えるでしょう。
お盆の墓参りは、初詣やクリスマス、ハロウィンなど同じで宗教的行事のひとつです。
江戸時代よりキリスト教弾圧によって、民衆は強制的に寺の檀家とさせられていった背景があります。その頃から始まった「お盆」は、正月に並ぶ「休日制度」であり、休日利用して先祖の墓参りも兼ねるように慣習化していったようです。
ですから本来、
お盆は一般的にはなかったのです。
ただの夏季休日として広まったということです。
地獄の釜が開く訳でもなく、地獄が休みとなる訳でもなく、そもそも地獄がある訳でもありません。
故人は墓には住んでいませんし、墓石の中で眠ってもいません。ましてや墓石そのものが故人の身体でもなければ、墓石に魂が宿っている訳でもないのです。
逆にわざわざ故人が墓に付いてきているようなものであり、墓参りしている姿を近くで観ていると想像してみると良いでしょう。
日本仏教的思想界に囚われている檀家霊団は、お盆と命日だけは唯一帰宅しても良いとしているようです。それは亡くなった母親に教えてもらいました。
普段はそんなにいないはずなのに、お盆中だけは、靈界が靈人で溢れかえっているとのことです。
宗教は、メディアを使って、民衆に偽りを申しています。方便と申せ、偽りを民衆に刷り込む行為は決して望ましいとは言えません。
墓参りをしなければ故人を供養出来ない、先祖が寂しがるといって、何百年もの間毎年繰り返されてきている"洗脳・虚偽行為"のひとつです。
墓は無くとも供養することは出来ます。
墓に行かずとも故人には瞬時に会えます。
故人を想う心があれば形は関係ないのです。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
お墓参りするあなたの姿をお墓からではなく、あなたの後ろや隣で見ている故人(笑い
もっとも、あんな薄暗い地面にすんでいるわけ無いジャン♪
詳しい事情は「魂のインターネット」で検索してチョ