日々、薄氷の上を歩く
日本人は今、この「毎日毎日、薄氷の上を歩いている」状況下にあると思います。
全国民がそれを意識しているかどうかは別ですが。
例えば、いま福島原発の周辺地域の人たちは、どうか原子力発電所がこのまま大人しくしていてくれという願いと希望を持って日々を生きているかも知れないのです。
もうこれ以上の最大最悪の状況は起こって欲しくない!
どうか大人しく終息してくれ!
こう思うのはその地域の人ばかりではありませんが、特に福島原子力発電所に近い人たちにとっては「まいにち薄氷を踏む想い」をしているのではと思います。
そして、全国のひとたちにとっても・・
しかし、現実的には遠く離れている地域の人たちには、現実感としては「薄氷を踏む想い」を毎日しているかどうかは疑問です。
実際にその事を経験してみないと何事も実感としてわかないからです。
それは事故や災害、それに病気、人の死など、どれも実際にそれに関わった体験をしないと実感できないのが当たり前なのです。
その当たり前の事を承知していながらも、「では、起こってから実感すれば良い」と言うだけでは物足りない。
いや、物足りないというよりも、智慧が足りないという事です。
誰かが代わって体験してくれている、それが人類集合体の中における仕組みの様なものだと考えると、全員がまったく同じ体験をしないとならないという事は無いわけです。
だれかが重難病を体験している、誰かが災難を受けている、誰かが(一見ですが)不幸に見舞われている・・・これは人類全体の中で日々起こっていることです。
だから、その人たちの様に自分も体験しないと実感できない・・と考えてしまうのも当然ですが、その事とはまた違った視点で考えてみる必要があります。
それはその人たちは全体のために代表的に体験して、他の全体にそれを教訓や何かのヒントとして材料を与えてくれている・・と考えてみるのです。
そして、全体からみて少数の体験がそれぞれ異なりますが、その少数体験が全体に活かされる仕組みが出来ているのではないかと思います。
何が言いたいかというと、今回の福島原子力発電所の事故は日本全体の教訓として受け取ることだと思うのです。
それは一か所の原子力発電所の事故は日本全体の原子力発電所の代替わり的役割を果たしたという見方です。
簡単に言えば、あの事故は日本全国のどこの原子力発電所でも起こることなんだよ。
という意味です。
しかし、「起こってみなければ実感できない」のであれば、次にはまたどこかの原子力発電所に同様な事故が起こる。
そして、その周辺地域の人たちは実感する。
また同じように「毎日、薄氷を踏む想い」をする事で実感する。
そして、その時点でまだ全体がその教訓を活かさないと、そのまた次にはどこかの原子力発電所で同じ様な体験をしなければならなくなる。
人間は猿と同質か?というと、人間個人においてはかなり猿的なものがあります。
それは「学ばない」ということです。
いや、知っていても毎日繰り返してしまう。
そして破局まで行かないとやめられない。
そういう事はけっこう個人的にはあります。
だから、猿人間と言われても返す言葉はありませんが・・
しかし、もうひとつ大きな集合体としてみれば、大きな智慧も出てきます。
それが自制できるのは他人通しで助け合う、協力するという形ができるからです。
ひとりでは止められないやめられないかっぱえびせんでも、大勢集まれば自制できるはずです。
それは他人の事(体験など)を見て自分を知るということができるからでしょう。
それを今回の福島原子力発電所の事故が「全体のために見せてくれている教訓」だという見方です。
これを教訓としなければ、次の体験をまた誰かが(日本に限らず)しなければならないようです。
つまり、
やめられない止まらないかっぱえびせんを続ける限り、このままでは気づくまで止められないから気づくまで同じ体験を繰り返すという仕組みです。
そして、やがてみんなが体験してようやく止まるか?となると、
その時は既に遅しというのがかっぱえびせんと違うところです。
食べる物は原子力発電所の放射能だとすれば、食べ過ぎた後は胃のもたれが何十年も続く程度では済まないからです。
食物連鎖と同様、放射能連鎖が生態蓄積という形で、ずっと汚染し続けるからです。
もう、食べ飽きたからそこで終わった。というわけにはいかないのです。
もう一度繰り返さないといけないほど弱い教訓だったのか?
もうこういう事は無いと言い切れるのか?
それに対して自然の教訓は続くのでしょう。
人間は自然現象を止める事は不可能です。
しかし、それに対して教訓を活かせば最低限に被害を防ぐことが出来ます。
こんな事は当たりまえすぎる話しです。
しかし、何かの理由があって、どうしても教訓を無視する。
その理由とは何か?
これは個人がひとりで考える事でしょう。
もう一度、原子力発電所の事故を体験しなければ教訓とならないのか?
その決断を自然がいつまで待ってくれるか?
それは誰も分かりません。
数日なのか、数週間か、数ヶ月か、数年か・・
だれも分からない、しかし起こってしまえば非常に高い確率で福島原子力発電所の事故再来の予感がします。
まさに毎日が「薄氷を踏む想い」というわけです。
もう経済がこうだ、電気が足りなくなるとかいう理由など、どうでもよいことです。
もしも・・という言葉はおそらく無いでしょう。
「いつかきっと」
の方が確率が高いでしょう。
そのとき、
「ああ、一度の教訓で止めておけばよかった・・」
とかっぱえびせんの袋を投げつけてみても遅いのです。
まあ、かっぱえびせんの会社から文句が来るかも知れませんので、
「かっぱえびせん」の文字をなにか別のものに置き換えてください。
それは個人によって異なりますから、セルフサービスですよ。
おお~~、久しぶりに引用転載を止めて自前じゃないか?
はは、止められないとまらない~~転載、引用
翌日
あ、また食べている・・・・
えびせん
はは、止められないとまらない~~無断転載、何でも引用