軍艦島30 改めて解説‘軍艦島’ | 郷土を愛そう!散策しよう♪ウォーキングブログ

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〔2013年5月31日の記事リニューアル再アップ〕

軍艦島29


軍艦島を良く知らない人達へ、今一度ご紹介いたします(*^▽^*)

軍艦島

本当の名前は端島(はしま)

炭鉱の島。軍艦島の由来は外観が旧日本海軍の軍艦土佐に似ていたからである。
良質な石炭が採掘され、主に八幡製鉄所に送られていた。

長崎県西彼杵郡高島町の沖合いに浮かぶ島。

1810年に岩礁で露出炭が発見されて以来、1974年に閉山されるまで日本のエネルギーに貢献してきた。

石炭の需要が増えると人口も増加し、狭い島に居住を確保する為、建物の高層化が進む。

南北480メートル、東西160メートル、周囲1.2㌔。

この小島に最大5259人(1959年)住んでいた

これは当時の人口密度世界一であった。



ここには、日本の当時の最先端技術が惜しまなく使われていた。

まず、日本初のRC造のアパート。大正5年に作られた。



これが5号棟。日本初の高層アパート↑

このアパートは土間があります。玄関ではなく土間です。台所は釜戸で共同風呂、共同便所。

この後に、同じく大正時代に作られた高層アパート、いくつかあります。

後は過去ブログ見てください♪

つづいて


 
こちらは左手が端島小・中学校。奥が島内最大のコの字型の高層アパート65号棟。

65号棟は物資の少ない戦時中に完成した、エレベーターシャフト付のアパート。
エレベーターはついに付かず、シャフト部分は居住スペースとなった。

この島は他にもいろいろあります。詳細は当ブログ記事、テーマ別で軍艦島を選んでいただき
読んでください。

日本初の海底電話。
日本初の海底水道。

本土よりもテレビ、冷蔵庫、洗濯機の普及率が早かった。

そして炭鉱のガス爆発も起きたり、台風の被害、緑無き島という過酷な環境の中人々は暮らしていた。

しかし映画館もあり、パチンコ冶等の娯楽施設もあり、端島銀座と呼ばれる商店街もあった。

過酷な環境だが、生活は便利も良く住みやすかったそうです。

くしくも石炭の需要から石油の需要へ変わり、炭鉱も閉山となる時が来た。引揚げ船に乗り、みな本土へ帰っていった。
1973年以降、この島は無人となっている。



あれから数十年!
この端島は荒れるにまかせて
朽ち果てて
くち果てていた
この島は
もう再びよみがえることはない」


何度も書いていますね爆笑

啓明寮(66号棟)にある閉山後に書かれた有名な落書き。


今この軍艦島は、長崎港と伊王島からツアーがあり、上陸できます。しかし建物には入れません。

でも行く価値はありますラブ

軍艦島は謎も多いんです。

それはこのような遺留物物が数多くそのままになっているんです。

これは当時のステレオです。

まだまだ、テレビ、冷蔵庫はもちろん、電話機、雑誌、子供の玩具、梅干の瓶(中身入ってます)醤油瓶(中身入り)お酒の瓶・・・・・・・残ってるんです。

自分は見てきました。

何故そのままなのか…謎です。



なかなか全部は伝え着れません。でもこの前軍艦島に行った同僚の話で、現地のガイドの人が言っていたこと・・・

いま見ているのが、あなたの軍艦島です。
明日には崩壊してしまうかもしれません。

この島は一日一日姿を変えてます。
しっかり目に焼き付けてください。



この小・中学校の下は・・・


 
台風による洪水で、足場がさらわれ、基礎部分が露出しており、実際傾いているとか。

いつ崩壊してもおかしくない状況です。
また遺留物も風化、潮害にさらされなくなっていくことでしょう。

出来れば、この島がまだ稼動していたときに行きたかったですな。


軍艦島に思いを馳せる