被災した引きこもりや支援者たちは今… | 横島 夢乃介の観測日誌!!

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被災した引きこもりや支援者たちは今――震災を機に精神疾患の症状が治まった 当事者たちの活躍
http://diamond.jp/articles/-/11882?page=4


~内容~


市内の大半が大津波による浸水被害を受けた宮城県石巻市。震災から1ヵ月過ぎたいまもなお、沿岸部を中心に瓦礫の街がどこまでも広がり、パサパサに乾ききったヘドロが、白い粉塵になって舞っている。


少し足を延ばして、市街地から旧北上川を渡った山の向こうの渡波地区も、震災後はひどい津波に襲われて、瓦礫と浸水で孤立していた。その先の震源域に近い牡鹿半島の小さな集落や漁村は、ほぼ壊滅状態。さらに、その奥地の女川町や北上川沿いの雄勝地区の両岸は、土台から根こそぎ消失した家も多く、道路が寸断され、ボランティアなどのマンパワーが足りずに、ほぼ手つかずの状況だ。


そんな広域にまたがる石巻地区に、唯一といわれている引きこもり支援団体があり、震災後、孤立した高齢者などの弱者の支援に駆けずり回っている。「引きこもり」や「発達障害」、「うつ病」などを抱える社会的弱者の雇用支援を行うNPO法人「フェアトレード東北」だ。


同団体はこれまで、市内の内陸部にある蛇田や、渡波地区の寮で、共同生活を行ってきた。


当連載で以前、津波に遭いながらも、家から逃げることなく漂流の末に生還した引きこもり当事者の話を紹介した。今回の大津波に際し、「災害弱者」といわれる彼らは、どんな状況になっているのか。


市内の内陸部にある同団体を訪ね、代表理事の布施龍一さん(35歳)に話を聞いた。


・地域で存在を隠し、孤立していた当事者や家族彼らの震災後の状況を掘り起こすことは難しい


実は、施設の利用者は、県外の人がほとんど。石巻の人が地元の施設を利用するのは、地域的に抵抗感が強いようだ。そのため、市内の引きこもり当事者の人たちについての状況は、把握できないらしい。ただ、元々ストレス耐性が弱いだけに、震災後は夜になると徘徊したり、真っ裸になったりと、不調をきたす人たちが多かったという。


そういえば、家々の土台しか残っていない、ある廃墟となった住宅地を訪ねた際、住民からこんな話を聞いた。

地震後、住民が外に出て津波の様子を見ていると、隣の家に住む青年も出てきた。住民は、青年の両親のことはよく知っていたが、その息子に会うのは初めてだった。「いまから思えば、引きこもりだったのではないか」と振り返る。


住民は「津波が来るよ。両親に教えてあげたほうがいい」と教えてあげると、青年は何もいわずに再び家に戻っていった。


その数分後、家々や電柱がバリバリと音を立てて迫ってきて、その後ろから何重もの白波がそれらを呑み込むのが見えた。


慌ててバイパスを駆け上がると、住宅地から飛び出してきた3~4人を除いて、あっという間に、その家も流されてしまったという。


元々、地域でも存在を隠し、孤立していた人たちがどうなったのか。堀り起こすことは、行政でも難しいのかもしれない。

・精神疾患は

一体どこへ―被災者のために懸命に働く引きこもりの人々


話を戻すと、同団体は、ボランティアのスタッフや元利用者が約80人。そのうち、半数近くは、いまも安否が確認できないままだと布施さんはいう。


「利用者の人たちは、ほとんど助かっています。ただ、ボランティアの人たちは、人を助けようとしたり、何かをしたりしていて、所在が確認できていない状態なのです」


そんなボランティアの人たちも、大半は社会から弾かれた人たちだ。


震災が起きたとき、布施さんは出張先の東京から戻ったばかり。利用者たちは全員、牡鹿半島にある同市鮎川浜の公共施設にいた。


震災後、市内には、孤立した避難所が、いくつも存在していた。でも、警察などの行政は、まったく動いていない。


石巻で生まれた布施さんは、至る所で道路が寸断された中、ひとりで腰上まで浸かるほどの水の中に入って、一軒一軒の当事者の家や避難所を尋ねて歩き回った。


「怖かった」と布施さん。でも、施設の利用者の安否確認をしなければならない。


まず市中心部から入ったのが、寮のある渡波地区。そこに向かう途中の道路やトンネルには瓦礫が重なり合っていて通れなかったため、山を越えた。


行く先々では、たくさんのケガ人がいた。遺体もあちこちに浮いている。そんな水の中を1人泳いだ。


そういう布施さんも、家や車を津波で流された。しかし、布施さんは、親戚から車をかき集め、行政さえもわからない道を通って、孤立した牡鹿半島の集落を回った。


同じ牡鹿半島にある小淵浜では、漁師が震災後、舟を津波から守るため、沖に出た。漁師は、津波が沖合にある標高20mの島の上を楽々と越えていくのを目撃する。


こうして3日間、飲まず食わずのまま、沖合に避難。4日目に戻ってきても、まだ行政も自衛隊も入ってきていなかった。


そこで、布施さんたちが、そんな漁師にも水などを運んで行った。


「引きこもりの彼らもどぎつい災害を目の当たりにして、被災者を助けたりしているうち、いろいろ気づきがあったのでしょう。驚いたことに、今回の震災を機に精神疾患がピタッと止まったといって、喜んでいる親御さんもいました。話を聞いてあげて理解してあげるというケアをしていた人もいました。いままでまったく働かなかったような人が、震災から2日目、泳いで避難所に行き、トイレ掃除を必死になってやっているのです。何だか、感動しましたね」


避難所のトイレは、水が流れていないので、詰まってしまう。しかし、市役所の職員は、そこまで手が回らない。

何か感じるものがあったのだろう。その当事者は、トイレの詰まりに目を付けたのだ。


「慣れていたんじゃないですか?汚いこととか、面倒くさいことは、いちばん後回しになる。うちでは、そこから始めれば、話がどんどん進む、といつも教えてきた。うちに参加することで、弱い人に対して、何かしなければと思ったのではないか」。


海外のメディアは、そういう汚いところを取材している。日本のマスメディアは、きれいな映像ばかり撮りたがって、隅っこには光を当てないという。


本当のことを伝えきれていない。それがいま、被災地で起きている現実である。


事務所の周囲も、腰付近まで水没した。水が完全に引いたのは、震災から約1週間後。引きこもりの人たちが、水をかき出す作業をバックアップした。そんな引きこもりの人たちが5月から、東松島市の内陸部にあり被害のなかった田んぼでコメづくりを行う。


「意外だったのは、震災後、利用者同士の絆が深まったことです」(布施さん)


同じ社会的弱者同士の支援が広がっている。


・いま、孤立する弱者が求めていることは何か 支援の届かない人々のために本当の情報を


いま、いちばん困っていることは?


「お金がありません。ガソリンを買うのにも、僕らはすべて自腹。貯金を切り崩して、ガソリンを買っている状況です。また、ニーズと支援が合っていません。高齢者の方々は、杖が欲しいと言っている。しかし、支援で来るのは、車椅子。震災で道路がないのに、車椅子をどう使えというのでしょうか」


実際、今回の津波で、家族を失っている高齢者が多い。


元々、車で移動する生活を送ってきた。しかし、車もガソリンもない。


「彼らは自分で歩きたいんです。歩いて、流された家を見て、瓦礫の中から使えそうなモノを海で洗ったりしたがっている。だから、杖を欲しがっているのです。テレビに出た集落は、支援物資が一気に送られてくる。皆さんの善意が悪意になっているんです。しかし、隣の集落では、何も届きません。住民同士で、ものすごくモメている状況もあって、現実はひどい。いま望んでいるのは、本当の情報を流してほしいということです」

では、日本中で、何かの役に立ちたいと思っている人は、どう対応すればいいのか。


「募金してもらっても、うちらみたいな団体には、お金は回って来ません。結局、大きな支援団体にしか、お金は落ちないのです。石巻市に集まった義援金も、使われる先は、人が集まって目立つような広くて大きな所ばかり。本当に困っている人のことは見えていない。大きな避難所の中でも、足が痛くて、炊き出しすら食べに行けない孤立した人たちがいる。1ヵ月経っても“カップラーメンでいいから、温かいものを食べたい”と言っている人がいる。それが現実なのです」


確かに、物資は行き届いてきている。しかし、マンパワーが足りない。


同団体は、地元のNPOとして、そうした支援の行き届かないような、孤立する弱者たちの話を聞いて回るケアを地道に続けている。


発売中の拙著『ドキュメント ひきこもり~「長期化」と「高年齢化」の実態~』(宝島社新書)では、このように、いまの日本という国が、膨大な数の「引きこもり」を輩出し続ける根源的な問いを追い求め、当事者や家族らの語る“壮絶な現場”をリポートしています。ぜひご一読ください。


…とにかく、この震災をみんなで乗り越えましょう。