「今度は母が乳がんに」

 

 父を亡くし、今度は母が乳がんと診断された。

 

千葉の実家に里帰りして、2人で温泉にいったときのこと。露天風呂で母がちょっとしこりあるのよね、と。どれどれと触るとけっこうしっかりとした硬さのものが存在した。

 

 すぐに専門病院にいくようにと伝えて、私は後ろ髪惹かれる思いで札幌に戻った。

 

その後、かかりつけ医は触診しかできなかったので紹介状をかいてもらって大学病院にいったという。エコーとマンモグラフィの結果だけでも数週間の待ち、その後の細胞診からも時間がかかり、結局一か月。確定診断までのどきどきを母が一人で抱えていたのかと思うと・・・何かできなかったかなと今は悔やむ。

 

 すでに何人もの乳がん患者女性の取材をしていた私。手術や当時の治療のことを知識として持っていた。良性の腫瘍で通っていたその札幌のクリニックへ母を転院させることにした。

 

妹も仕事をしており、遠方の大学病院への毎日のお見舞いは難しかった。札幌であれば、私が勤務先から30分もあれば車で行ける。ましてや多数の症例も持つ、主治医なのでその安心感もあった。母を千葉から札幌の病院に呼び寄せて、入院、手術をしてもらった。

 

 腫瘍自体は2センチほどだったが、リンパ節に転移があったことからリンパ郭清もした。抗がん剤の選択肢もあったが、ホルモンER/PGR両方高いことそして、千葉に戻ったあとのQOLの観点から抗がん剤は見送った。

 

今は、抗がん剤の吐き気のコントロールが効いてきていて、少なくなってきているが、15年前の当時はまだまだ。

60代の真ん中だった母は、娘2人も手が離れたし、自分はやり残したことがほぼないのであとは運命に任せたい、という。医師からは、経口タイプの抗がん剤の選択肢もある、と提示されたが、そもそもメニエール病など持病のある母にとっては日常生活がうまく送れない可能性は排除したい。

 

最後は、私がホルモンのみ、という選択を決断した。 

 

 数年後、もしものときがあって迷惑をかけるかもしれないけど、私はそれでもかまわないと母が話したのもある。きちんと病状を把握し、どんな選択肢があって、何を優先してどう生きるか。突然の病ではあるが、選択をする時間はある。きちんと話し合い、家族にとって大事だということだ。

 

 母を見ていて発見したこともある。がん患者のイメージがアップデートされたのだ。

 

母の入院中、毎日仕事で面会時間終了前に滑り込んでいた。いくといつも母は談話室にいた。ボスキャラのごとく患者さんに囲まれて楽しそうに話していた。千葉から来た母も別に珍しいわけではなく、病院のある札幌ではなく、函館など遠くから来ている患者さんも多かった。お子さんとの向き合いやこのクリニックにたどり着くまでのいろいろな苦労をお持ちだった。少し一緒に交じっていろいろな話を伺った。

 

一方同じように面会に来たご家族ともお話した。患者さん本人には言えない話もたくさんあることもここで教えてもらった。みんな多かれ少なかれ迷いながらこの場所にいる。

 

でもみなさん、すぐにごはんは食べられるし、別に行動に制限がない。入院お見舞いや差し入れをおすそ分けされてすっかり私は太ってしまった。

 

 一番の驚きは退院後、すぐに温泉に入りたいというので個室露天風呂を予約した。でも傷もあるのに大浴場に気にせず入る母を見て、メンタル強いわ、と思ったことを思い出す。

 

 その後、10年ほど続いた、3か月、6か月に一回と続く通院は、すべて北海道旅行と題して温泉宿巡り。楽しく過ごしていた。閉経後のホルモン剤の副作用で、途中薬剤を一回変更したものの今も母はぴんぴんしている。私ががんと診断されたとき、取り乱さず、がんはすぐに死ぬものではない、と思い込めたのは彼女のおかげだ。

 

 そんなこんなで母も乳がんだし、乳腺外科に通っていたので、胸・ブレストケアには非常に関心があり、早くからピンクリボン運動(乳がんの早期発見を促す運動)に協力していた。乳がん患者さんにも出会い、ドキュメンタリー番組も制作、イベントも毎年のように手がけていた。みなさん検診にいってね、自分で命を救ってねと呼びかけていた。

 

そんな私がまさかの乳がん、覚悟はしていたけれど、その後の次から次へと選択を迫られる状況にどんどん冷静さを欠いていった。親とはいえ、ひとのことと自分のことは違ったのだ。