父を亡くしたあとの母

 

 

 父を亡くした苦労なんて私たちにはまったく微塵も感じさせない明るい母だった。しかしその裏で更年期障害やメニエール病に悩まされ、投薬やホルモン治療をしていたことを私はずいぶん大人になってから聞いた。

 

家族も第2の患者。人が亡くなるのになんともない人がいるわけがない。テレビドラマで人が亡くなる話や病院が出るたびに消す、なんてことが何年も続いた。妹はファミリードラマですら厳しかった。父がいない、という現実はそう簡単に癒えない。

 

「生きていくには働くしかない」

 

 大黒柱を失った私たちはこれから働かないと生きていけないという現実が否が応でも突きつけられた。テレビ局への就職を目指し、活動を始めた私はさらにその狭き門に心が打ち砕かれていた。

 

アナウンサー試験はほぼ落ち、一般職もキー局や大阪でいいところまで行っても結果が出なかった。

 

「北海道ならいいんじゃない?」母がぽつりと言った。そうだ、子供のころに住んでいた北海道ならゆかりがあると思われるのではないか。

 

 子供のころから父と一緒にスキーをして資格もとっていたこともあり、スポーツ商社の内定をもらっていた。ここがダメなら、もうスポーツ商社へ行こうと決めて受けたのが今の局、北海道テレビだった。

 

小学校のころ、ゴーゴーファイブという小学生なら誰もが出たい超有名番組があり、私も出場。カップラーメンや「くん太くん」の巾着をもらった話をしたらとても面接で盛り上がった。父を亡くして、奨学金をもらってここまで来て、人のためになるドキュメンタリーをそして、人に夢を与えるスポーツのドキュメンタリーが作りたいと話した。当時の人事の方いわく、女性だけれども「へこたれない強さ」を感じたのだという。

 

 無事にHTBに入局し、最初に配属になったのは、制作部。当時、新人で、さらに女性で配属されるのは初めてだった。もちろん、最初はアシスタントディレクター、AD.

 

車の運転、机拭いたり、コーヒー出したり、ロケの準備をしたり。深夜番組やスポーツ番組の小さなコーナーや取材を任されるのがプレッシャーだったがうれしかった。

 

 典型的な男社会で今では考えられないことも結構あった。(当時はまったく問題にならないレベルの話)なので女性っぽくみられるのがマイナスだと自分で勝手に感じて、メイクをしなくなった。そもそも細かい方ではないのだが、いわゆる男っぽい方がなじみやすかった。

 

 これまた社内で女性で初めて東京のキー局へ長期の研修にも出してもらって人脈やいろいろな経験をさせてもらった。そこで無理がたたったのか、プレッシャーだったのか・・。

 

 理由はわからないが、ちょっと動くと異常に動悸が早くなり、大量の汗。体調不良になって、札幌に戻ってきてから会社をしばらく休んだ。バセドー病(甲状腺機能亢進症)と診断された。

 

 甲状腺機能を正常にする投薬で普通に仕事に戻ることができた。治療自体は5年ほど続き、橋本病(甲状腺機能低下症)にひっくり返ったこともあったが、いつしか正常値に。必要以上に肩肘張って無理するのは自分のためにも、人にも迷惑をかけるんだということが身に染みた。

 

 入社して数年たつと、社内もだが、外部プロダクションのディレクターも女性が増えてレアキャラではなくなった。制作で小学生スポーツのドキュメントなどは作ったが、その後は情報番組へ。情報番組でも2000年の有珠山の噴火が契機となり、ニュースを多く取り扱うようになってきたことから、確実に自分に足りないスキルは報道だと感じた。希望を出し、30歳に報道部に配属された。初日に十勝沖地震が起き、続くタンク火災などで多忙を極めたが、取材の基本を短期間で叩き込まれた。原因の追究やかかわった人の心を深掘りする取材にやりがいを感じていた。