②「テレビ局で働きたい」

 

 

 中学時代に朧げながら描いた、テレビ局に勤めるという夢。そのためには可能性が広い大学がいい。

 学校の成績はよかったが、受験という一発勝負には弱いのではないかと見抜いていた3年のときの担任がいくつか推薦入試の話を持ってきてくれた。マスコミに強い大学と法学部で有名な大学。国際派の大学もあった。家族会議が行われた。

 中高と部活に明け暮れていたし、父も仕事で全国を飛び回っていたのでほとんど家にはいなかった。将来の話などまっとうにしたことはなかった。

 

 手に職、資格がないと女性が働くのは難しいのではないかと父がいう。

 

「弁護士か医者はどうだ」。

 

英語が得意なんだから、語学を生かした国際派はどうなの?と母が勧める。

 

私はテレビ局に行きたいとそのとき初めて家族に話した。かなり父ともめたが、最終的にマスコミに強い大学を選び、小論文などを経て推薦で無事に合格が決まった。これで一歩夢に近づいたと思ったそのとき、すでに父の身体に異変が起きていた。

 

 卒業まであと数カ月。父はなんだか具合の悪そうな日が多い。休みの日も横になることが多かった。「薬を飲めば治るさ」と精密検査には行っていなかった。

 

「働くって男性でも大変なんだな」と思ったものだが、私も二つ下の妹もまだ高校生。目の前にいる人がその数か月後にこの世からいなくなるとは思っていなかった。

 

 1991年の4月。私は大学に入学。父の働いていた会社と大学が同じ地下鉄の沿線だったことから一緒に通勤・通学ができてうれしいなと思っていた。しかし、これができたのはたったの2週間だけだった。その後、父は入退院を繰り返す。体調不良を訴えてから一年たたず、その年の8月の末に亡くなった。

 

 スキルス性の胃がんだった。働ぎ盛り、48歳、若すぎる死だった。

 父へ病名は最後まで伝えられていない。患者にがんという病名が伝えられるようになったのはつい最近の出来事だ。

 

 いまでも見つかりずらいスキルス性の胃がん。父も発見されたときには胃壁だけではなく転移していた。開腹手術をしても手の施しようがない。抗がん剤も気休めかもしれないという厳しい状況だった。すでに終末期、余命は6カ月もない。奇跡は起こりようがなかった。

 

「胃潰瘍だと言われていたのに手術をしないのはなぜか?」

「腹水がたまるのはなぜか?」

「いつになったら家に帰れるのか?」

 

 代わる代わる病院に詰めていた母と私に父は尋ねた。私は返す言葉を持ち合わせていなかった。今思うと、個人の希望による治療の選択、どこでどう亡くなるのか。残された時間をどう使うのか。やり残したことはないのか。何ひとつ父はできなかったはずだ。   

 

 18歳ながら、がんでなくなるという現実と、終末期医療の様々な問題を体感していた。

 

 

  母にも話していない話ー

 

 

 最後の入院となった際、痛み止めのためのモルヒネで意識混濁していた父。私を何度か母と勘違いして話すことがあった。これまで聴いたことがない、母と出会ったときの話や学生時代の思い出、それはそれは楽しそうに話していた。知らなかった父と母の絆の深さを感じた。この「母」と勘違いされたときの会話が今の私を支えている。

 

 私と妹が生まれたことを何よりも喜んでいた。私と一緒に通勤して話したことをうれしそうに話す姿に涙があふれて止まらなくなった。父は本当に忙しく、ちゃんと人生の話をしたことがなかった。大学も結局自分で決めてしまったし、あんまり相談してこなかった。私の知らない父の話がどんどん出てくる。今しか話せないし、今話さないと後悔することもわかっていたけれど、父は私に母を見ていたのでひたすら相槌を打って聞いていた。でもわかって話しているのかもしれないなというときもあった。子供に心配させて、看病させてすまないね、と言われたから。

 

 母にそれを話すことも寂しさを増幅させるだろうし、私自身も父がもういなくなるんだという気持ちのほうが大きく、話すことも難しかった。がんとは話しづらいことなんだ、と感じてしまっていた。それでも自分が生まれてきてよかったと、父と母の子供に生まれてよかったとその時に感じたし、父の分まで生きて母を支えなくてはいけないとそのとき覚悟を決めた。

 

 あっという間に突然のがんで世帯主だった父を失い、家族3人でこれからどうやって生きていくのか。母は結婚とともに仕事を辞めた専業主婦。妹はまだ高校生で大学をあきらめさせてはいけないと思った。

 

まず私は入学したばかりの大学をやめることも考えた。

すがる思いで面接を受けた大学自体の奨学金、そして企業からの給付型の奨学金(青井奨学会)と日本育英会の返還型奨学金の3本立てでなんとか退学を免れた。

 

おかげで体育会レスリング部やテニスサークルにも参加。ディズニーランドや家庭教師などいくつかのアルバイトもして、忙しかったがこれから社会人として生きていくのに大切な体験ができた。

 

妹は高校卒業まで遺族年金をもらって受験勉強。彼女もいくつかの奨学金を得て工業系の私立大学に進学、建築士になる夢をかなえた。

 

 進学など学びが続けられる環境さえあれば、なんとかなる。夢と未来がある子供、がんの遺児に対する助けは数十年たってもまだ十分ではない。私のたまたまが当たり前であってほしいと思う。

 

 一方で母は本当に大変だったと思う。まずは、娘たちをどう進学させるか。保険は入っていたけれど、当時はまだがん保険は一般的ではなく、入っていなかった。

 

家のローンが団体信用生命保険で無くなったのがせめてもの救いだった。こまめに私たちのために貯金をしてくれていたものが支えだった。

 

父は生きていれば、その年に会社を任されるはずだったとのことで退職金やその後のサポートがかなり手厚かったことにも感謝している。

 

突然の事態にあのときの父の会社の様々な助けがあったことが私の今につながっている。