権力構造、三の三、20060227 | 権力構造と政治改革: 日米比較 3の3

権力構造、三の三、20060227

(続く)
権力構造と政治改革: 日米比較
Three out of three, beginning, pages 17-24



米国では、大政党による大統領候補の候補の指名の大会が開かれるが、その過程が、
此の今説明したカナダの大政党の総裁選出の過程に匹敵するのである。 これも、約
6ヶ月かかる大変大規模な全国的に繰り広げられる行事なのである。 大変な労力と
金銭的支出が伴う。 それから、カナダの大会に比べて、米国の場合には、テレビと
かその他のマスコミの報道は、もっともっと広範である。 筆者は、日本の自民党の
党大会に実際出席した体験があるが、その時に得た印象を多少誇張して述べれば、日
本の卒業式とかお葬式の様な厳粛のものであった。 それから、米国の党大会にも出
席した事もあるが、これも、多少誇張してみると、大変な人出があり、お祭り騒ぎの
様なものであった。 若者も多く出席して居たし、ロックの音楽も演奏されて居た。
 日本の田舎の文化とか浅草の文化では、お祭りがかなり大事の様であるが、やや誇
張すると、米国の政党の大会は、米国の日常生活に深く融合されたものの様で、平均
人とか中産階級の生活の大事な一部そ成して居る様な印象を受けた。 残念ながら、
日本の場合には比較的に近寄り難い印象を与えるのである。 多くの人々の予想で
は、此の次の米国の大統領選挙では、クリントン元大統領夫人が出馬する様で、前記
の説明で、多分明白な如く、一部の専門家の予想が当たるとすれば、クリントン夫人
支持の政治運動は、大変な大衆の政治的なエネルギーによって支持されたものになり
そうなのである。 日本では、想像の付かない様な盛り上がりが起るかも知れないの
である。 日本の民主党の岡田克也氏が、郵政民営化総選挙の際に、日本の大衆から
受けた反応とは、かなり違うものになりそうなのである。 尤も、事実は、日本の多
くの政治家は、米国の学者の意見などを取り入れて居る様であって、確か、岡田氏
は、前回の米国の党大会にも出席して居ると聞く。 にも拘わらず、彼の米国に関し
ての知識は、日本の民主党の選挙成果には余り直接的に繋がって居ない様なのだ。

筆者は、日米加を含めて、かなり文化の異なる国にかなり長期な亘って住んだ体験が
ある。 そして、その際に最初に気のつく事は、情報は、水の様には自然な形で自由
に流れず、逆に、情報は、ある程度、改定され、変更され、促進され、阻害され、
色々な屈折を通して、流通して居る様なのである。 新聞等に投書をした事もある
が、明らかに誤って居る様な情報でも、その改定文は必ずしも、簡単には、主要なマ
スコミの機関には即時反映されないのである。 勿論、無意識的に、情報が押さえら
れて居る事もあろう。 その一つが、日米加の間の間接選挙に対する態度の差であ
る。 もっと具体的に説明すると、現在の新しい民主党党首の前原誠司氏等は、著名
な米国の政治学者とかなり親しい関係を持って居ると伝えられて居るにも拘わらず、
米国式に、直接に大衆に近ずく選挙戦略に関しては、実際は、かなり消極的の様で、
国会議員とかその他の高いレベルの政治を主な対話の対象として居る様なのである。
  例えば、前原氏は、国家安全保障問題とか日中関係に関して、かなり頻繁に発言
して居る様であるが、多くの場合に、その様な話題は、一般大衆には無理な問題なの
である。 此れに対して、小泉純一郎氏の「自民党をぶっ壊せ」と言う様な簡潔な表
現は、知識人とってはあまり意義に無い宣言と写るかもしれないが、「草の根」の
人々に良く理解出来る事柄の様だ。 政治家にとって、常時大きく流動して居る大衆
心理を的確に読む事は、至難の業である。 小泉純一郎氏の様な人でも、2006年9月
の郵政民営化の総選挙の快挙に付いては、「多分今後再現出来ないだろう」と認めて
居る。

現在、自民党の内部では、ポスト小泉を巡って、次代の指導者の選出が行われて居
る。 どうやら、小泉氏は、複数の候補者の間の真剣な競争を強く奨励して居る様
だ。 筆者は、民主主義の理念の立場から、その様な競争過程の充分な活用に対し多
いに賛成する。 米国では、予備選挙では、複数の候補者が、大体一緒に、一団と
なって、全国各地を回り、同じ場所に同時に現れ、党員の支持獲得を相互に競争す
る。 アイオワとかカンサスと言った農業の盛んな地方にも回り、一部の人々は、そ
の様な「品定め」を「家畜品評会」(cattle show)と揶揄迄して居る。 筆者の率
直な意見は、日本の民主党等も、国会議員の間だけの支持を乞うだけではなく、永田
町から離れて、もっと広く働きかけ、「家畜品評会」をもっと頻繁にやったら、「草
の根」の政治的エネルギーをもっともっと動員出来たであろうと思うし、そして、小
泉「劇場」総選挙で、あれほど、ひどい負け方はしなかったと思う。 しかし、残念
な事に、総選挙直後の党首選出作業では、民主党は、大衆とのダイナミックな直接対
話の過程を省略して仕舞った。 其の後、日本のマスコミに於いて、それに関して、
特に強い批判は、出て居無かった様であるが、多分、その様な「国会議員中心主義」
が、日本の政治文化の“正常”な形なのであろう。 恐らく、外国政治文化の影響を
受けた一研究者が、その点に関して別の意見を提出して批判したとして見ても、或
は、日本の政治の大勢には余り大きな影響はないかも知れない。

米国、カナダに比べて、日本では、国会議員が政治過程でより重視されて居ると言う
事は、別著の「検証・小泉政治改革」で、かなり詳細に説明した積りなので、此処で
は、その大部分を省略させて貰うが、一、二核心的な事項を繰り返えして見ると、そ
の一つは、「国会議員が尊重されて居る」と言う事は、必ずしも、「一つの政治機関
としての国会自体が尊重されている」と言う事にはならないのである。 寧ろ、上記
した様に、実質的な決定に関しては、日本の政治では、国会は、あまり中核的な役割
は果たして居ない。 自民党にとっては、連立の場合もあるが、一般的に、国会の両
院で、多数の議席を握っているので、少数群の野党と政策の細かい内容に関して深く
協議しても、法案の内容の確定に関しては、多くの場合に、余り意義が無い。 寧
ろ、実質的には、国会の本会議の前の時点で、多数集団の与党連合の内部とか自民党
だけの中で決まるのであって、極く最近迄、大体、自民党の内部だけで、本格的で、
充分な議論がなされて居た。 此の場合に、奇妙な点は、自民党は、本当は、私的な
団体なのである。 国会の直ぐ隣りの建物の中に割拠する組織で、厳密には、その住
所は千代田区永田町1-1-23である。 そして、更に、奇妙な点は、その組織の総裁を
含めて殆どの主な役員は、全部が、自民党所属の国会議員なのである。 そして、そ
の総裁職は、大体、議員団が握って居るのである。 詰まり、日本の自民党は、一方
では、全国的な大衆的な組織かも知れないが、その半面、実質は、国会議員が支配し
て居る私的組織なのである。 此の日本式の国会議員支配の政党形態方式は、米加に
存在しない。 米加では、全国的な党組織は、一般に議会とは余り関係がなく、選挙
の管理がその主な仕事で、通常は、連邦議会の議員はその様な組織の中核的な役員に
は、一般的に、就任しない。 そして、筆者の判断では、此の点に、日本の自民党の
突出した特権的地位の基盤の一つが見出されると思う。 勿論、日本特有の派閥制度
が、この様な党の既に強大な権力を更に補強して居る事は間違いない。

筆者は、長年、小泉政治改革を観察して来た。 其処で一つ気の付いた事は、小泉氏
とか彼の側近等が、新しい改革を示唆するとすれば、その際に、「欧米でやって居る
ので、日本も、その様にやるべきだ」と言う様な形の論調は大抵使って居ない事だ。
 その具体的な例を一つ挙げるとすれば、今年の2006年の初めに、武部 勤自民党幹
事長が、自民党総裁選に関して、予備選挙の試行の可能性を検討した事がある。 そ
の際に、武部氏を含めて、自民党要人は、「予備選挙は、米国で頻繁に活用されてい
るので、日本も是非その例に倣うべきだ」と言う様な意見は誰も述べて居なかった。
 恐らく武部氏はその様な米国の事情を熟知して居たであろうし、其の様な事を発言
しようと思えば、簡単に出来た筈であろう。 この現象に関しての筆者の意見を述べ
るとすれば、「その様な小泉対処政策は、基本的に「政治的に」「正しい」と言うも
のである。 と言うのは、それに付いての政治的逆効果の可能性は避けるべきである
から。 

何処の国にでも、ある程度のナショナリズムは存在し、そして、その国それなりの特
異性に関しての誇りは持って居り、単に、外国で、そして、先進国で、採択されて居
るからと言って、一国の政治家が自分の国の国民に対してその様な慣習を機械的に押
し付け様とする事は、政治的に誤りだから。 カナダの対米ナショナリズムとか対米
カナダ独自性の主張の件で、予備選挙の紹介の際に既に説明した様に、カナダにも
思ったより強い、愛国主義が存在するのである。 日本の場合にも、戦前のナショナ
リズムはかなり激烈だったし、戦後でも、今日、靖国神社参拝、皇室典範改正、拉致
等の問題で、国家主義の問題がかなり大きなものとして持ち上って来て居る。 年号
に関しては、日本では、今でも、今上天皇の即位の時点から起算して居る方式を使っ
て居り、世界でも、公式に、西暦を使わない非常に数少ない国の一つだと思う。 と
言う事は、日本の政治改革には現実的な限度があると言う事かもしれない。 カナダ
と言う国が、非常に強力な米国の文化攻勢の中に生きて居ながら、その反面、外部か
らは見逃し易いかも知れないが、カナダは、古く且つ力強い英佛の政治文化遺産に強
い誇りを持って固執して居るのであり、そして、日本政治文化の場合にも、その一定
の側面に付いては、外国の政治文化に対して、禁制的な形で対応するのかも知れな
い。

「ある一定の種類の政治学体系を築き上げて見たとしても、それは、或は、結局、砂
上の楼閣に終るかもしれない」とは既に述べた。 政治学研究では、物理学の様に、
その測定は完全に厳密でなく、そして、若し、多少誇張するとすれば、「痘痕が笑
窪」の様に判定されるかも知れないし、又、その逆の場合もあるかも知れない。 丁
度、映画の「羅生門」の一部のシーンの場合に様に、事実としては、一つ解釈しか存
在しない筈のものだが、目前には、其れが数個のかなり別のものとして提示されて居
るのかも知れない。 一つ一つの議論の白黒が決まり、そして、キチンと片ずけられ
て、その様な個々の議論が、集積的に要約されて行けば、全体的に、建設的である
が、政治の分析の為の議論の場合では、その逆の場合も多く、所謂、水掛け論とな
り、全体的に、内容的に、余り、前進しないかも知れない。 とにかく、政治の勉強
は大変だ。 その様な理由で、小泉政治改革も、日本のマスコミでは、様々な異なっ
たシロモノとして解釈されて来た。 日本の大新聞の社説等で、小泉政治改革に対し
て、手放して的に肯定的なものは、比較的に少ない。 日本のマスコミの小泉政治改
革に対する反応は、一般に、現在の筆者程は、絶賛的ではない。

もっと具体的な実例を挙げてみよう。 確か、元首相の宮沢喜一氏は、少なくとも一
時は、どうやら、次の様な意見を発表されて居た。 現代の政治では、年金問題、対
外援助、景気の回復、その他の大きな問題が山積して居り、郵政民営化の様な小さな
問題に政治エネルギーを集中的に注ぎ込む事は、誤りだ。 此処で、或る程度、筆者
の憶測が入るが、宮沢氏の基本的な考え方は、どうやら、次に様なものらしい。 郵
政民営化は、其れのみとしては、小さな単純な政治問題であり、別に、その裏に、権
力構造の再構成とか、官邸の下に権力を一重化すると言った大政治改革を伴う訳のも
のではない。 従って、此の郵政問題に執り付かれる必要はない。 此の宮沢氏の解
釈とも想定される立場は、勿論、筆者窪田の現在の解釈と大体反対の立場だ。 
ニューヨーク・タイムズ紙によると、一米国政治学者も、郵政民営化を過小評価する
点では同じ様な議論を展開して居る様で、更に、此の学者によると日本での真の改革
促進者は、民主党であって、小泉内閣ではないと言う。 勿論、客観的な事実とし
て、民主党は、全員、2005年夏に、郵政民営化法案に反対投票し、小泉内閣とその支
持者は其れに賛成投票を投じて居るのであるが、それでも、或は、無理りに、理屈を
通す方法もあり、それは、小泉郵政民営化法案はインチキとか不完全なものだ判断す
ると言う論法を動員する事である。  ヨーロッパ出身の新聞記者で、2005年9月の
総選挙を意義を確定しかねて居る人も居る。 とすれば、此の人物の日本政治に関す
る判断は、小生の其れとは異なり、此の選挙の結果を日本政治基礎構造の一重化に結
び付けては居ない様なのである。

小泉政権が最初に2001年春に出現した時には、最初から、世論調査の結果等では、小
泉内閣は、極めて、人気が高かった。 その状態は、或る程度、今でも続いて居る。
 小泉氏は、大衆に対しては、何時も、大体、旨く対応して来て居るのである。 し
かし、その反面、小泉氏は、マスコミ、そして、特に、知識人の受けが悪かった。 
日本の多くの著名な新聞記者等が、小泉内閣を短命なものと予想した。 当初は、新
聞雑誌等は、多くの場合に、小泉氏に対して、パーフォーマンスとかポピュリズムと
言う表現を適用した。 そして、大抵、悪い意味に使われた。  ”パーフォーマン
ス“とは、どうやら、”見せ掛け“とか”不誠意“と言う事らしい。 詰まり、本当
は悲しくないのに、涙をながしたり、本当は楽しくないのに、笑ったりして、大衆の
ご機嫌をとるのである。 ポピュリズムとは、迎合主義と言うか、必要以上にやや人
工的に大衆におべっかを使う事で、そして、その支持を獲得する事に成功する事で、
此処でも、やはり、急所は、”不誠意“と言う事らしい。 うっかり、「踊らされて
いけない」と言う警戒論だ。

その頃、日本では、多くの学者が政治指導論の本を刊行して居り、パーフォーマンス
とかポピュリズムを対象として、大攻撃をして居るのである。 大抵名指しはして居
ないが、小泉純一郎氏が標的になって居る様なのである。 そして、どうやら、その
多くの場合に、その根拠は、「非儒教的」だと言う事らしい。 確かに、小泉氏は、
日本の過去の偉大な政治家に比べて見ると余り儒教的な印象を与えない。 寧ろ、小
泉氏は、お祭り騒ぎ的な指導者である。 儒教の基準から評価するとすると、「軽る
過ぎる」のである。 しかし、米加的な政治価値から憶測して見ると、ケネデイ的な
お祭り騒ぎ的な指導制は、大衆の間に政治エネルギーを創造し、そのエネルギーが改
革に繋がるのである。 少なくとも、西欧では、その様な表面的なものが、政治的に
有意義なのである。 そして、多分、孔子と言った様な高潔で、深遠で、哲学的な人
物は、多くの場合に、小泉式なお祭り騒ぎに対して、かなり懐疑的だろう。 

筆者が此処で今迄本文で展開して来た議論は、完全に、「無軌道な」「水掛け論」で
はない。 多少なりとも学問的な筋金が入って居るかもしれない。 三種類位あるの
ではないか。 その一つは、ヴィッケンスタイン哲学と、そして、その言語の意味の
研究。 その第二は、Juan J. Linz 教授の権威主義と全体主義政治制度の研究の方
法論。 そして、第三には、人生の四、五十年を掛けて読んだ莫大な政治学関係の書
物とかその他の研究資料である。 五年か十年続けて毎日ニューヨーク・タイムス紙
を購読した頃もあった。 勿論、自然科学研究で作り上げられる体系の様に、その骨
組みは強固なものではない。 せいぜい、半信半疑で、一生懸命になって、掴まろう
とする建造中の未完の骨組みに過ぎない。 或は、集めた資料は、その一部はかなり
利用価値があったとしても、別の一部は的外れのものかも知れない。

小泉改革のほぼ確定した成果を列記して、此の小文を終らせて貰おう。 その第一例
は、組閣の人選である。 此れは、明らかに、小泉内閣下で大きく変わった。 此れ
は、「羅生門」的な幻の映像とか掴み処のない現象ではない。 閣僚の人選は、能
力、経験、首相との政治関係等によって決まり、在職は、半年とか一年といった短期
間でなく、出来れば首相の全期に亘る。 此の方式は、大体、英、米、加で使われて
居る方式だ。 第二に、派閥が大打撃を受けた。 郵政民営化総選挙の於いては、或
る意味では、郵政民営化自体が、政治闘争の正式な焦点であったが、又別の或る意味
では、又は、その陰では、本質的には、派閥戦争であったし権力闘争であった。 と
言うのは、此の闘争での反乱軍の二大指導者の一人は、亀井静香氏で、当時、彼は、
かなり大きな派閥の領袖であった。 もう一人は、綿貫民輔氏で、彼は、別の最大派
閥に属し、その当時、領袖の席が空席であったので、その代行の様な役を果たして居
た。 結局造反者は、その指導者を含めて、全員、公認されなかったので、党を去る
ことになり、従って、派閥も脱退せざるを得なかった。 自民党の派閥の一部は、未
だ残って居るが、それが、総裁選とかその他の場で果たす役割は、少なくとも、小泉
内閣以前の期間に比べると、顕著に下がった。

第三に、自民党の総務会とか政務調査会の場合には、その力は、その大部分が官邸に
移され、その様な党の中核的な機関は、予算とか法案の内容の決定には、余り大きな
役割を果さくなって仕舞った。 それから、税制の年毎の様々な調整の作業も、大
体、官に移った。 年末の予算復活の為の大デモは殆ど永田町から姿を消した。 た
だ、この様な、権力構造の再編成が、一時的なものか恒久的なものか今の時点では、
明確には判明できない。 或は、その一部は逆行するかも知れない。 第四に、少な
くとも、大規模な政治腐敗は、小泉内閣下では、首相の身の回りからは殆ど除去され
て仕舞った様だ。 此の点は、田中角栄氏時代とは、大いに、異なる。 小泉内閣が
始まって以来の此の 約五年間に、現役の財務大臣とか産業経済大臣等の要人で、腐
敗で、正式に追求されたり、起訴された人は一人も居ない様だ。 小泉氏自身の集め
る政治献金の年間総額は、大抵、自民党の上から数えての十傑とか二十傑に入らな
い。 歴代の首相としては、希な現象だ。 自民党の元首相で、最後に、追及された
人物は、橋本竜太郎氏だ。 彼は、田中角栄氏に近かった人で、その政治手法は田中
式であり、小泉氏とは正反対の立場にある人だ。 2001年の総裁選で、小泉氏は、橋
本氏を破った。 投票直前迄、橋本氏が勝つものと一般に予想されて居た。 橋本氏
は、小泉首相の下で、余り目立った役職に就かなかった。 そして、2005年の総選挙
の頃には政界を去って行った。

第五に、様々な分野で、改革の仕事が進んだ。 郵政民営化については、その立法作
業は完了し、実務的な引渡しとか変革の実質が今後数年に亘って、実践に移される。
 元首相の場合であっても、選挙運動を全然しなくても当選する様な特権的な比例代
表制高位の公認はもはや授与されなくなった。 自民党内でも、長老を尊敬する儒教
的慣習の一角が崩された。 政府金融機関は、その大部分が統合され、簡素化される
事が決まった。 議員の年金と一般国民の年金の差が、縮まった。 政府予算全体が
削減され、景気刺激の為の補助金的な政府支出が減らされて居る。 第六に、道路
税、地方自治、教育等の分野の改革は、未だ遅れている。

最後に、第七番目に、一国家の指導者としての小泉純一郎氏の幾つかの主な特徴に付
いて語り、此の小文を完了したい。 小泉氏の人柄自体は、恐らく、日米政治比較と
言う知的作業には、必ずしも、不可欠な項目としては登場しないであろうが、それで
も、此の項目は、日本の小泉内閣時代の政治改革を充分に説明する為には、ほぼ、見
落とす事が出来ない題目の様だ。 多くの面に付いて、小泉氏は、日本の近代の政治
家として、かなり特異であって、決して、平均的とか典型的な人物ではなかった。 
第二次世界大戦終了1945年以降現在まで、延べ、29名の人々が日本の首相の地位に就
き、吉田茂氏の二期在職を考慮に入れると、実質28名となり、様々な色彩豊かな一連
の人物が登場し、活躍して来たが、その多種多少の人物列の中で、小泉氏の様な人柄
を他の首相に見出す事は難しい。 そして、政治改革と言う「突出した」企画にかな
り無理に突進して来たと言う政治史的な事実と、小泉氏のその「突出した」人柄と
は、大いに相互関係がある様だ。 

一つには、小泉氏は、「突出した」人物であると言うか、「変人」なのだ。 小泉氏
は、かなり若い時代から、社会一般から、「変人」と頻繁に呼ばれて来た数少ない日
本の大政治家の一人なのだ。 勿論、「変人」と呼ばれるからには、一連の「変わっ
た」行動に訴える必要があったのであり、その一つが郵政民営化の単独宣伝行為で
あった。 たった一人の議員の促進する運動であった頃もあり、郵政大臣室に、一人
で残され、周りの高級官僚から、殆ど完全に、無視されながら、大変頑強にその主張
を押し続けて来た。 一般に、「調和」を重んじる日本の文化では、極めて、珍しい
現象であった。 改革を押すと言う事は、どうしても、尋常ではない事を押すと云う
事になり、従って、必然的に、多くの場合に、「変な事」を勇ましく遂行して行く人
柄が、必要であった訳だ。 長い間の陽とか逆境に耐えながら、辛抱強く、自分の信
念にしがみつき、その様な努力をさびしく何十年も続行して推し進めて行く様な特性
が必要な様だった。

それから、或るいは、小泉氏が希に持って居り、どうやら、余り多くの日本第一線の
政治家が持って居ない特質の一つは、大衆を動かす力なのだ。 大衆心理を適格に見
抜き、瞬間的に、大衆に対して、最も効果的な対応を打ち出し適応して来て居る事
だ。 万一、若し、小泉氏自身がその様な能力を持ち合わせて居ないとすれば、小泉
氏は、少なくとも、その様な側近とか助言者を見付け出し、その様な部下を最も効果
的に駆使する特別な才能を持って居る人物なのである。 その具体的な実例は、郵政
民営化「劇場」総選挙の場合である。 2005年9月に行われた此の選挙は、一面で
は、拙著の「検証・小泉政治改革」を一覧すれば、自明の如く、此の「解散・総選
挙」での基本戦略は、五年、十年、二十年前から少なくとも漠然とした形で、意識さ
れ、研究され続けて来たものであるが、一面では、最後のせっぱ詰まった時点で瞬間
的に、逐次、採決され、迅速に、実行突入されて行ったものである。 その当時の新
聞等を再点険してみれば、明白な如く、その当時は、小泉氏の企画に強く反対する日
本の一流の政治家は相当数居たのである。 にもかかわらず、小泉氏は、「無理な」
そして「変人的な」選択肢を勇敢に選んだのである。 そして、その小泉氏に反対し
た日本の一流な政治家の多くが、小泉氏に関して、見落とした最大の項目は、多分、
小泉氏の持っているやや異常な大衆の心理を見ぬく政治的な知的能力なのである。

又、別の言い方をして見ると、小泉氏は、どうやら、優れた大衆操作能力を持って
居る人物の様なのである。 そして、その様な異常な能力は、歴史的には、ナチの例
等で自明の如く、或る意味では、危険なのである。 小泉氏が、その政権の始めの頃
に、日本の知識人等から、ポピュリズム等でひどく批判されたし、その数年後の郵政
民営化選挙では、再び、一部の日本のインテリとかメデアの指導層から、批判され、
そして、“小泉劇場政治”現象は本能に訴える様なファッシズム的傾向の日本に於け
る再台頭の危険性をもたらしたと攻撃されて居るのである。 紙面の関係上、現代の
日本に於けるファッシズムの再興の可能性に付いての検討は、此処では省略させても
らうが、この様な反小泉的評論家が多分見落として居る重要な点は、「改革と言うも
のは、一般に、大衆の力強い支持がないと成功しない」と言う点である。 数十年前
に戻るが、三木武夫氏とか竹下登氏が試みた自民党内の対派閥制策は、大体、作文的
活動に留まり、実際の改革行動としては、全然、成功しなかった。 殆ど、全然、実
践に移されなかった。 其の一つの理由は、筆者の意見によると、その様な昔の「改
革」運動には、大衆のエネルギーがその背後に全然活用され動員されなかったからで
ある。

比較的最近に、日本の政治指導性に関する多くの書物を点検する機会があったが、
其処で見出される一つの大きな知的基盤は、儒教である。 驚く事に、第二十一世紀
の現在でも、日本の政治哲学の一つの大きな土台は、依然として、儒教の様だ。 著
名な政治学者の書いた政治指導性に関する本で、”政治家が、深刻な政治状況に面し
て、紙と筆を取り寄せて、其処に、「論語」等の儒書の重要な字句を正しく引用し書
き留め”て、周囲の人々に展示すると言った様な行動の重要性を強調されて居た。 
 筆者の儒学の素養は、極めて貧弱なものにしか過ぎないが、筆者の解する限り、そ
の一つの要点は、「仁」と言う価値体系の中心性であり、“政治と言う事は、どうや
ら、仁を巡る指導者と大衆との道徳的な高質な人的な関係”である。 静かな、厳粛
な、高貴な、知的な、半宗教的な関係らしい。 又、逆に説明して見ると、多くの場
合に、お祭り騒ぎとか、デモとか、ドンチャン騒ぎではないらしい。 貧しい社会の
どん底の労働者とか農民の彼等の本当の生の感情の表明と言った政治行為では無いら
しい。 

しかし、問題は、儒教に対し、民主主義政治の場合には、実社会の政治関係は、後者
に近い。 そして、特に、近代の大衆民主主義の場合にそうである。 ルーズベルト
のニュー・デイールとかケネデイのニュー・フロンテアーは、「仁」的なものと言うよ
り、もっと「草の根」的なものではないか。 小泉氏は、“自民党をぶっ壊せ”と大
胆に公言するが、その際に、小泉氏自身とか、彼の直属の部下が、四書五経を丁寧に
調べ上げて、その様な表現又は其れに似たものを忠実に探す事に努力し、そして、探
し当てる事に成功して居るのであろうか。 一体、その様な古典中心の知的準備研究
は、今日では、もう、的外れなのか。 或は、現代の日本の選挙民の「心の奥底」に
見出される基本的な政治姿勢は、じわじわ儒教の哲学の枠を多少逸脱し始め、北米流
の大衆動員型政治哲学の方向に動き始めて居るのか。 そして、その様な動きに対し
て、現代の日本の知識人とか評論家は、必ずしも、充分に追い付いて行けないのでは
ないか。 

小泉氏は、自分がその生涯を通して所属して来たし、そして、自分が現在事実指導し
て居る政党組織を敢えて「ぶっ壊す」と宣言した極めて希な日本の大政治家だ。 近
頃では余り使われない用語であるが、小泉氏は、「日本人離れ」をして居る人物かも
知れない。 何れにしても、此の政治家が、一生懸命になって、多くの面で、日本を
変え様として居る事にはほぼ間違い無い。 そう言う小泉氏の努力を、日本の選挙民
の多くが、真剣になって取り上げ始めて来た様だ。 そして、その変え様とする際
に、多くの事柄に関して使われて居るモデルが、良く調べて見ると、本当は、どうや
ら、米加とか西欧由来のものの様だ。 少なくとも、米加に長く住んだ人物の目に
は、その様なものとして写る。 痘痕が笑窪かも知れない。 郵政に付いては、米加
共に、かなり前の時点で、既に、或る意味での民営化を行って居る。 或は、もっと
広く、小泉氏は、“日本の組織的なグローバラナイズ化”を狙って居るのかもしれな
い。 尤も、小泉氏のホンネはそうであっても、彼は、その様な事を絶対に口に出さ
ないかも知れない。 いずれにして見ても、改革は、多くの面で、実質的に、日本の
政治をより米国的、よりカナダ的なものして居るみたいだ。 その様な意味で、日米
加の政治の比較は、意義がある仕事の様で、その様な意味での本格的な比較研究はま
すます助成奨励されるべきものかも知れない。


以上



(終わり)
権力構造と政治改革: 日米比較
Three out of three, ending, pages 17-24


権力構造と政治改革: 日米比較
東京福祉大学名誉教授 窪田 明著 
2006・02・27