数ヵ月前に
「愛したいのか、愛されたいのか」と聞かれ、答えられなかったわたし
そのときは「愛」の定義がわからないからだと誤魔化したけれど。
そうではない
単純に、決められないだけ
自分の出した答えを生きる勇気や、覚悟がないせいです。
それよりもずっと、相手に決定権を渡し
「あの人からこう思われたい」「こんな人だと思われるように振る舞いたい」と装って、認めてもらうという。哀れみを乞う生き方をした方が、簡単だと考えていたのだと気づきました。
今までわたしは、自分が自分を見つめて
そして慈しんであげることをしてこなかった。
誰かの瞳のなかで生きて来たのかもしれません。
だとしても、それをやり尽くしていれば幸せなんだろうけれど
わたしは常に相手を変えてきた
苦しくなると相手を変え、逃げてきていたのです。
ヨガは「自分のために自分を磨きなさい」と言います。
「自分に対して最大の敬意を払い、これ以上してやれないような幸福を味わわせてあげなさい」
自分のために体を清潔にし、食事を用意しなさい。
自分を先ずは最優先に喜ばせなさい。
とても簡単なこと、当たり前すぎておろそかにしていたことばかりです、マスター・スダカーは口を酸っぱくして言ってくださっていました。
今てんでバラバラで、散らかり放題だったあのことこのことが、一つに集まってくる。
全て教わったことでした。
掃除機で吸い込むように集まり、繋がってくる。
テキストを開かないTTC、Re.ヴィジョンオブヨガは、ヴィジョンオブヨガのテキストに基づいている。
みんなもヨガしようよ