個人的演劇空間論(10) | HAYAの「奇跡は起きたのか、それともこれから起きるのか」

HAYAの「奇跡は起きたのか、それともこれから起きるのか」

2013(平成25)年の闘病を、思い出しながら記録することを基本としたい思います

これは結論が近づいている。決まっていたことではある。多少の遠回りはした。観劇の感想などだ。だが、関連があると思い敢えて述べた。“個人的”であるから何を書いてもいい訳だが、自分としては繋がりがあると思っている。

学生時代にさんざん読み、当時はそらんじることも出来た。多分いまもほぼ変わらずに言える。が、著作権法上、無断で引用は出来ない。
何が言いたいか。
児童劇とは、である。簡単に言うと全ての人が楽しめるもの。大人も子どもも男も女も、思想や信条に拘わらず、ってこと。これは、とりも直さず演劇の理想というか本質、頂点を突いていると思う。

関矢幸雄先生(字くらい調べろ!)の『遊びのなかの演劇』(だったかなぁ?)に書かれていた。GW中に探してみたがみつからなかった。誰かに貸したままか、引っ越しのときに紛れてしまったか、また探してみよう。名著だと思う。

どのようなものか。昔話は誰もが知っている。しかし大人(になりかけ)は退屈に思うかもしれない。時代劇はどうか。意外に子どもも、大人も楽しめるかもしれない。では、外国人はどうか。同様に、シェイクスピアやウンベルト=エーコなどは日本人が本当に理解し楽しめるか。この手のものはキリスト教の知識が要るように思われるし、チェーホフも面白いがバックグラウンドに共産主義があることを知っているとより楽しめる。では、何か。私は月並みかもしれないが『星の王子様』を思い浮かべた。劇化することは難しくが、話自体は子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、読むたびに違った解釈が生まれる。
同じようによく読まれている『モモ』は、確かに面白いのだがビジネスマンなどには辛いのではないかという気がしている。

青年座の『サーカス物語』は理想型に近いのではないかと思っている。『モモ』と『サーカス物語』はエンデの作だ。

児童劇は、自らの意思でというよりも、大人のそれによって観に行かされることが多いはずだ。なればこそ、楽しめなければならないのだ。