僕は、どちらかと言えば分からないことがあったらそれを延々と考えてしまう性質だ。
例えば数学。
数Ⅱで初めて定積分と面積の関係について触れた時、なぜこの操作で面積が出るのか理解ができなかった。
勿論、なぜこれが面積になるのかの証明はあったが、それでも分からなかった。
 
だからかなり長い時間考えた。
それでも分からなかった。
今思えば何が理解できなかったのかが理解できないのだが、
それでも分からなかったというか、一行一行は終えるが腑に落ちないという印象だった。
 
つまりは、どこかのタイミングで理解に成功したのだが、なにが起こって理解できたのか?
特別なことはない。
とりあえず積分で面積が出る理屈を意味がわからないままに読み通し、
しばらく放って置いて、また読み通し、しばらく放って置いて、また読み直し……を繰り返していたら、いつのまにか理解に成功していたのだ。
 
僕だけなのかもしれないが、しかし誰しも、考えてもしっくりこなかったことを時間を置いて理解した経験を持っているのではないだろうか。
それとも、そもそも考えている自覚すらなしにしばらくして突然発想する事もあるかもしれない。
 
仮に、理解に必要な要素の一つを時間経過だとすると、理解しようとしている情報類を一通り視界に収め、脳に意識させておく必要がある。
 
だから、とりあえず終わらせることが重要であると考えられる。
最初から最後までの流れをなんとなく脳に馴染ませる。
野球の素振りなどと似ているかもしれない。
 
或いはそもそも、理解とはどういう状態を指しているのだろうか。
例えば1+1=2を理解しているかと聞かれて、なんと答えるだろうか。
なんだか哲学的で答えづらいかもしれない。
であればもっと答えやすくする為に、どちらにより近いかを考えて見る。
それならば、理解している方に近いだろうとほとんどの人が思うはずだ。
なぜか?
 
1つのリンゴと1つのリンゴを並べて数えると2つになるから、などという小学生の頃に習った理屈を思い返してみたり、或いはペアノの公理を知っていて、そもそも証明できる人もいるかもしれない。
(僕はごく平凡な受験生であり、大学数学ほんの少し齧った程度のニワカ知識故、違ったら申し訳ない)
 
前者ならば数字と記号の意味を具体化して己の中に落とし込めており、
後者は定義から当たり前を繰り返して導いている。
 
ほとんどの人は、恐らく前者をもって理解している状態だと考えていると思うし、
実際僕もそうだ。
数学的な厳密生には乏しいが、高校まではこの理解の仕方で何の問題もないだろう。
その理解の根底にあるのは何か。
 
まず数字と記号の意味を知らなくてはならない。
では数字と記号を理解しているのか。
いや、理解は必要はないはずだ。
なぜなら、それらは便宜上人間が勝手に定めたものであるから、
特に理解する余地がないのだ。
単純に知識として覚えるしかない。
別に1が1である必要はない。
+が加えるという意味を持つ必要もない。
その共通認識があると便利だからそうなっているだけであると、僕は思っている。
 
表面上は理解していると思っていることを突き詰めていくと、最終的には定義としての知識に落ち着くような気がしてならない。
それはつまり、単に覚えているということだ。
結局、理解とは何なんだろうか。
意識の上で納得し、不都合が生まれていないのなら、それはもう理解したと言って差し支えないのではないかと僕は思う。
 
だから理解というのは、ひょっとすると覚えるとか、慣れるとか、知っているという状態と大差ないのかも知れない。
 
少なくとも僕は、理解できないことについてはなんとなく読み通し、やっぱり分からないなと思ってしばらく放置して、また読んで分からないなと思ってしばらく放置して、を繰り返して少しずつ前に進んでいく方法を取っている。
 
理屈はわからないが、やはり繰り返すと理解度は上がっていく様に思う。
特にその事について考えている自覚は無いのに、なぜだろう。
そこで、そもそも理解とは何なんだという疑問は先に言った通りとして……
 
たまに、参考書の前書きで僕と似た様な事を言っている先生がいて、どことなく親近感が湧く。
 
皆さんも理解できないことがあったら、とりあえず一通り最後まで頑張って、後はもういっそ忘れるつもりで放置して、思考をクリアにしてからもう一度チャレンジしてみて……というのを繰り返すと、案外上手くいく時が来るかも知れません。
まあ、それが本当に理解なのかはよく分かりませんが。