大学入試共通テスト(旧センター試験)は、年を経るごとにその分量と難易度が上昇傾向にある。
特に数学なんかは、2000年前後のセンター試験の問題と今のを見比べると、
もはや別の試験に思えるくらい次元が違う。
当然、今の方が難しい。
 
旧帝早慶を受けるような層なら、"所詮センターレベル"で、"9割以上が当たり前"だった時代のようだ。
時間を大幅に残して満点を取る人だって少なくなかったらしい。
個人的には、旧センター試験を今の試験に取り換えると、
下位層は色々と手を動かしてじわじわ進んでいく時間的な余裕があり、
上位層にとっては当たり前の確認でギャンブル要素が少ない、
結果的に出来の良い試験になった思う。
 
翻って、現在の共通テストはどうなのか。
まず異常なくらい分量が多い。
しばしば数学が現代文の試験じゃないかと、笑い話になっている(笑い事ではない❗️)ほどだ。
それにもかかわらず、試験時間自体はほとんど変化していない。
英語を例に挙げると、2000年前後では3000語を65分で処理するのが、
今では6000語を80分で処理しなくてはならない。
まあ本当はセンターの頃でも試験時間は80分なんだけど、
長文以外の問題も出ていたから、実質的に長文に割ける時間は65分程という意味だ。
 
単語数は倍になったのに、試験時間は1.2倍程度しか増えていない。
2000年前後と同じ調子で解いていては、50分も足りない。
 
こうなってくると、もはやあれこれ考えて答えを出していては、
高得点が取れなくなってくる。
情報の処理速度とその正確性の方がずっと大事で、もはや呑気に思考していては間に合わない。
そう、思考が邪魔な段階に来てしまっている。
 
……少なくとも、僕は近年の共通テストの問題を見てそう感じてしまっている。
特に数学。
思考力を見るはずの試験で思考していては間に合わないとはなんとも皮肉なものだが、
実際問題、あの問題を大門一つあたり十分そこそこで解かなくてはならないのに、色々実験して試行錯誤してみて考えている時間はあるのだろうか。
それで安定的に高得点が取れるのか?
僕はどちらかといえば否定派だ。
 
二次試験ならばまだしも、足切りに使われるような一次試験としての位置付けの共通テストで、
体裁としての運営が望む取り組み方で高得点が望めないよりも、
邪道であっても安定的に高得点が欲しい。
大学は4年間あるのだから、考えるのはそこからでも構わないはずだ。
所詮、受験時と大学入学には数ヶ月程のタイムラグしかない。
 
とはいえ、具体的にどうすれば良いのか?
これもやはり、共通テストの出題方針にヒントがある。
共通テストは思考力を要求している。
しかし、実際の試験会場で思考していては時間が足らない。
そうだ! 試験の"前"に思考しておけば良いんだ!
ということになる。
 
以上の過程を持って表題に戻るが、共通テストは試験当日での思考ではなく、
もっと長期的な、前準備も含めた思考の結果を要求しているのではないかと、
僕は思う。
 
思考の結果とは、すなわち過程や発想の省略を指す。
またもや数学を例にとると、問題を解く際は
問題を読む→題意を把握(→解法を考える→解法を選択する)→計算を実行→【修正】→答え
というプロセスを辿る。
※【修正】はなくても良い。
 
受験生内では広く知られていることだろうが、入試数学はそのほとんどに類題がある。
その類題を全範囲網羅して、あらかじめ思考過程を知識の一つにすぎないと思えるまで血肉として最適化しておけば、()内を丸ごと省略できる。
結果として、早く解けて安定性が生まれ高得点が狙いやすくなる。
 
わざわざ僕が言うまでもなく、上位層は意識すらせずこなしていることかもしれないが、
もしこのブログを見ている人の中で、共通テストの時間が足りない、思考が遅いのだ、もっともっと思考しなくてはと雁字搦めになって萎えてしまっている人がいたら、
そもそも共通テストは試験時間で思考する場ではなく、思考結果を叩きつける場なのかもしれないよ、と一つの意見を提案したい。
 
予めその問題はどうやったら解けるのか、なぜそれで解けるのかを知っていれば、慌てなくて済む。
それを知る過程でうんうん悩み抜いたなら、共通テストの方針にも逆らっていない。
それだけ仕上げても尚未知の問題が出たら、どうせ解ける人の方が少ないだろうと分かるし、解くか解かないか選択の余裕が生まれる。
 
思考というのは目に見えないし定量化もしづらく、日によってキレが違うから、判断の根拠としては弱い。
でも、頭に刻まれた知識はど忘れでもしない限り常時頭にあり続け、
日によって変化することもなく判断の根拠として比較的信頼がおける。
既に暗記した英単語の意味を疑う人がいないように。
 
解けない/知らない問題に当たった時、他の人は解けているのか。
自分にとって知らないことでも、他人にとっては当たり前なのか。
そういう風にパニックになってしまうのか、磨き上げて結晶化させた便利な道具としての知識を拠り所としているから、
これは多くの人間にとって未経験の問題だろうと推察できて、
些細な余裕を得るのか。
 
有名な参考書や問題集を使うメリットの一つに、それを仕上げて尚できないなら多くの人間が解けないはずだと、比較的冷静に難易度判断ができる、というものがある。
勿論、道具(知識)の応用には、また別途演習を積んで練習する必要があるが。
特に共通テストの場合、多くの人にとって慣れというか適応期間が必要になるだろう。
 
試験場と言えば、考えて悩む苦労をしている受験生をイメージするかもしれないが、特に苦しむことなくすらすら手が動く分には、それに越したことはないと僕は思う。
 
最低限の知識を得て、あとは試験場で考えて最大限の時間効率を得ようとするか。
最大限の準備をして、試験場を既知の形/パターンで可能な限り満たそうとするか。
 
後者を連想する人は結構少ないのではないかと、僕は感じる。
出題範囲が決まっていて、且つ共通テストレベルなら、まったく不可能な話ではないはずだ。
 
それに、受験生の頂点に君臨している医学部受験生は、この戦法を取っている人が多い様に見える。
万が一にも間違えちゃいけないから、予め出されるであろう範囲の問題のパターンを網羅して磨き上げている。
 
それで解けなくとも、既にできることを組み合わせて解こうとする応用力を、
パターン習得の段階でそこそこ身につけることができている。
 
思考過程すら省略できるレベルまで勉強するのが、昨今の大学入試で要求されているのかもしれない。
……これは半分、自分に言い聞かせている様なものだ。
 
僕の思考速度が遅すぎるから、時間が足らないのか?
→いや、そんなことはないはずだ
→とはいえ不安だ
を延々と繰り返している。
まあ、参考程度に。
全く見当違いかもしれないし、申し訳ないが僕も責任は取れない。
可能性の一つとしての話だ。
適正もあるだろうし。