今年かぞえで100歳になった母

昔の写真が出てきました


花嫁姿❣️



昭和21年頃でしょうか

戦争から帰ってきた父と

お見合い結婚だったようです






父の戦地での写真


なんか、

戦争の合間に

大衆演劇でもしてたんでしょうか爆笑

女装してますよねびっくり

日本じゃないような気がします



誰が父かわかりません(笑)



・・・


母は女学校を出て、

父親が教師だったことから、

師範学校も出た


でも、教師にはならなかった


なぜかと聞いたら、

教育実習で、

小学校一年生を持ったそうで、


そのあまりのうるささえーん大変さでびっくり

教師の道を断念したそうです





その後、

札幌の親戚の家で

行儀見習いや新聞社で働きました




そのうち、戦争が激しくなり、



・・・



挺身隊として、

北海道から本州は東京方面の

軍需工場に送られました

強制労働です



挺身隊・・・調べました


太平洋戦争中における

女子勤労動員組織で

14歳から25歳までの未婚女性が対象


「白紙」と呼ばれた紙一枚で集められた女性は、女子挺身隊という組織に入れられました


女性たちは、

戦争に必要な

武器を作る軍需工場などで

安い賃金で働かされ、

生産を支えることになった


そういう工場は、

特に空襲の目標とされたので、

多くの女性の命が奪われました



・・・



母は寒い工場で、

朝も夜もなく、

軍事物資を作り続けた


たしかね、住友系の工場だったと

当時の財閥は、

軍事産業でもあったんだよね




寮にも暖房はない

裸電球💡で手を温めた



いつ、工場が爆撃されるか

不安な毎日



けれど



昭和20年の1月

風邪をこじらせた19歳の母は、

意を決して



身体を壊したと申し出、

布団やら身の回りのものを荷造りして、

国鉄のチッキで郷里に送り、



北海道に戻って来た




そして、3月10日

東京大空襲が・・・




今思えば、

どうして帰る事ができたんだろう

と、言っていました



ただ、北海道の片田舎に戻ってからも

しばらくの間

特高警察に見張られていて怖かったと😱



たかだか、

十九・二十歳の普通の小娘にも

特高は容赦しないんだ



挺身隊を

逃げ出したと思われていたんだろうね




・・・




そんな昔のことを

聞くと話してくれます☺️




今は、

いい時代だね😌