ショック…
http://www.visualecture.com/type/index.html


に、09/01にトライしたら、↓このかたになってしまった…
http://www.visualecture.com/type/p8.html


あくまで耳学問の範囲でしかないけれど、Walzerって、あの、先制攻撃オッケーなかたですよね…
つまり、反撃しかできないと、守るべき人たちを守れない。反撃しかできない政治家って、共同体を守ることできるの?法律の枠を越えた行動を、非常時にはとるのが、政治家でしょう?、というかたですよね…ちがうかな…

もちろん、その攻撃が誤情報によるものであれば、政治家は磔刑にあう、でも、共同体に深くコミットメントしている政治家なら、それをする、というかたですよね…


以前、ワタクシはイスラエルのガザ侵攻とブライアン・イーノの毛髪量とに関して、深遠なる思索を行ったエントリを挙げ(現在は埋蔵)、パレスチナ支持を訴えましたが…このワタクシがWalzer…???じょわ~


でも、分かる気もする。結局自分一人なら、殺すより殺されるほうがずっといいけれど、もし守るべき者がいる立場ならば、やることは殺らせていただきます、という人間なのかなあ私は、とも。


どうしたらよいのか、ちょっと分かりませんので、とりあえず、ゆるゆると友を探してみようかしらと。Walzer派、09/01の時点では、40名で、7%…小中学校の1クラス以下の人数…道のりは険しい…

(あ、現在では144人。でも相変わらず6%。弱小なり。)


でも、Walzerの考え方に関しては、少なくとも拙ブログの読者のみなさまのなかの何人かは、
“オレさまが命をかけて守るべき女なんて、この世にゃいないのだ!!”
とお考えでしょうから(ちがうかな…)、そもそもWalzerせんせいの前提なんて軽く吹き飛ばせるとは思うけれど、でも、以前のエントリで軽く挙げた、カール・シュミットの例外状態と響きあう点があるとも思うので、緩く募集をかけてみます。


そういえば、シュミットの例外状態、個人的には人生に効きます!
彼の論を読み違えている可能性も多々ありますが、シュミットを政治のみに使うのはもったいないです。人生に適用しましょう、ほんとうにありがとう、シュミットせんせい♪



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サンデルせんせいにもふれておけば、彼の授業のいいところは、たとえば5人の人を救うためにハンドルをきることに賛成できない人がいるということを、小学生にもはっきり分からせたこと。

そういえば、サンデルせんせいのこの質問の源の方(ドーキンスの本にも…)が、不正で問題になりましたね…

http://www.economist.com/node/16886218?story_id=16886218&fsrc=rss

The Economist。Monkey businessって…なんだかすごい…


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共同体ついでに。

クーリエ今月号。(こちら 。vol.071)


以前、寄付に関して山形氏がおっしゃったことについて、だらだらと書いたけれど、クーリエのほうには、経済的富裕度の点から寄付についてきった結果をご紹介になり、日本の寄付についても言及されているので、共同体という補助線をいれてみようかな~と。


たとえば寄付の前提であるお金を稼ぐ上で、プレーヤーとしてすごい?のは、中国とユダヤ、という印象が強いけれど(少なくとも日本よりは)、その理由の一つとして、彼らを共同体が強固に支えているという側面がある。
共同体に支えてもらい、成功した彼らは、或いは失敗しても受け入れてもらえる彼らは、稼いだお金を共同体に還元することに抵抗はないはず。
で、そうすることは寄付行為の第一歩ではないかしらと。


日本の場合、財をなそうとする人間を、支える共同体が弱い印象がある。
だから市場でのゲームに失敗しがち。だから物理的にも精神的にもリターンを還元できない。

すでに指摘がたくさんあるとは思うけれど、市場と共同体というのは、結構並べて考える必要がある問題なのかしらね。


追記(11/09/10):

シュミット先生に関して、ご困惑等の向きも多いかと存じますが、とりあえず、この夏の暑いときにクーラーも入れず、一日布団に包まり天井見ていた人間が、ご飯を少なくとも1日2食は摂れ、普通に職場に行き、仕事がこなせるようになったのであれば、それがシュミットのアバウトな話がきっかけで、かつ、話した者も聞いた本人も、シュミット教信者になっているわけでもない場合は、まあよし…としてもよろしいのではないでしょうか?


さらに追記(14/09/10):

Walzerせんせい、さようなら~ だって、そもそも「私の国」とか、「私の人民」という考え方が性に合わないし、こちらが先に攻撃を仕掛けなければ、相手にやられちゃうという、恐怖に突き動かされて行動するのも、避けたいなあと。

3分後に~が起こるかもしれない、私の~はすでにない、とか、そういった恐怖は時間の輪にとらわれていることになるのですね…やっぱり。

…そうなると、わたしがカテゴライズされる政治哲学者って、だれになるのかな?