前のエントリで慈しみに関する記述があったけれど、心底大事だと思ったので書いておく。
部屋のお掃除をしていたら、昔友人たち(というか、大学時代の先輩たちだったりもする)からの
メールを印刷したものがごそっと出てきた。読み直す。
具体的には色々なことが書いてあるけれど、そのうちのいくつかは、まとめてしまえば
「このさきオイシイ人生が待っていなくても、それでも幸せでいられることを、あなたは身体で感じることが」必要である/できるというものだった。
このメールから5年が過ぎた。
今の自分はどうだろう?
たとえ人生全然おいしくなくっても、いつも幸せよ~と笑顔でいられる、そんな人間になったかは…
はなはだ疑問だし、今逆に友人や後輩たちに、ここに書かれているような具体的なことまで
私は言えるかどうか、正直なところ自信がない。
いい意味ですさまじい人間関係の中にいるのだと、改めて友人たちにヒソカに感謝する。
これからも見捨てずによろしくお願いいたします。(懇願)
友人たちの言う人生に必要なことは、私の考える範囲では2つあって、
その両輪を回していかなければならないのだけれど、そのうちのひとつが慈しみというものかなと。
折角なので、釈迦の慈しみに関するコメントを引用する。
Theravāda圏では日常的に愛読?されるもの。
慈悲の修習というと、チベットが名高いけれど、こちらもけっこういけるのだ。というか、ハード。
ちなみに、慈悲に関する釈迦のコメントは、現存経典類のなかではかなり少ない。
にもかかわらず、いわゆるパリッタとしてとなえられる現象については、
Theravāda文化圏における現世利益傾向によって、こういった要素(幸福など)を持つ
釈迦の言葉が呪的に受容されることになった、という並川先生ほかのご指摘あり。
(08/01/09 追記)
本当はよろしくないのだろうけれど、日本人在家者用に省略等を入れてみる。
別に私は、とある時期のとある日本人たちのような、日本全国仏教徒化計画の推進者ではない
ので、ご興味のない方は以下、スルーしてください。(さいきん、こればっか…)
究極の理想をわきまえた人が、静かな場所に行ってなすべきことがあります。
何事にも優れ、直く、正しく、人の言葉を良く聞き、柔和で高慢でない者でなければなりません。
足ることを知り、雑務少なく簡素に暮らし、諸々の感覚器官が鎮まり、聡明で裏表がないように。
他の識者の非難を受けるような、どんな小さな過ちをも犯さないように。
一切の生きとし生けるものは、幸福でありますように、平安でありますように。
目に見えるものも、見えないものも、遠くに住むものでも近くに住むものでも、既に生まれているものも、これから生まれようとしているものも、一切の生きとし生けるものは幸せでありますように。
どんな場合でも人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。
怒りの思いを抱いてお互いに人の苦しみを望んではいけません。
あたかも母が、己が独り子を命をかけて守るように、
そのように一切の生きとし生けるものに対しても、無量の慈しみの心を育ててください。
立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心を
しっかりと保っていてください。
この世ではこれを崇高な境地と呼びます。
(『慈経』 "Metta-suttam")
久々に読んでみると、しみるなあ。
こういうことを忘れていると、わたしのような人間は、やはり性格が粗雑になる。書いてみてよかった。
今後はしつこく自分にインストールしまくろう。