土曜日、祖母が天に還りました。

危篤の知らせから、長い長い5日間だった。


生まれてから祖父母も30年近く一緒に住んでいて

一人暮らしを始めてからもしょっちゅう実家に帰っていたし

私にとっては当たり前の、近すぎる存在だった。

両親は働いてたので祖母は私や妹の保育園の送迎をしたり 学校から帰るとおやつを用意してくれたり

夜ごはんも作ってくれた。

半分は祖母に育ててもらったんだと思う。


ずっと百姓だったので辞めてからも広い畑で野菜を沢山育てて毎日畑で作業してた。

その野菜たちは立派でとても美味しかった。


認知症がでて悪化したので

5年前に施設に入ってもらった。

祖母は嫌がった。

施設に移る日の朝のことが忘れられない。

2階で支度してると1階から掃除機のような、でもそうではない音が聞こえた。

見に行ってみると父が泣いていた。

身体が大きくて見た目コワモテな父が

大きな大きな声をあげて泣いていた。

それを聞いた祖母も来て、

「なんで泣いてんの?それやったら連れていかんといてや、私行くの嫌や。」と言った。

父は涙を拭いて

「すまん、行ってくれ。頼む、すまん。」と言った。



そこから施設に会いに行くたびに

「今日私どこでご飯たべんの?はよ帰ろうよ」と言ったのが辛かった。

お正月くらい、家に連れて帰らせてあげてと頼んだけど、両親は一旦帰るとまた施設に戻るのが辛くなるからと、一度も帰らなかった。


やっと帰れたのは、骨と灰になって小さな壺に入ってからだった。



最後は誤嚥性肺炎を起こして苦しそうだった。

危篤と聞いてすぐにかけつけたら

まだ手が元気に動いてて握るとぎゅっと力強く握ってくれたし、酸素マスクを外そうと腕を動かしてた。声をかけると目も開いて私の顔を見みたり瞬きをしたりしてた。


翌日に行くともう手はほとんど動かなくなって

握り返してもくれない。

目もうっすら開いてるけど動いてなくて

涙が溢れて流れてた。


その翌日が最期の日になった。

ほんとに最期の最後まで頑張って精一杯息をしていた。

人生を生き切った姿だった。

孫、ひ孫が集まってみんなが祖母に

ありがとう、と言った。

8人の孫は全員会えた。


亡くなってからは葬儀所で2泊、私は2日とも宿泊して祖母の横で寝た。

お別れの前の夜は、2人で色んな話をした。

折り紙の裏面にぎっしり手紙を書いて、折って鶴にして棺に入れた。


こんなに愛が深くて強い女性がいるだろうか。

私はずっと彼女の大きすぎる愛に甘えて

わがままに何の苦労もせず育ててもらった。


小さい頃に親を亡くして戦争で東京から大阪の親戚の家に疎開。10代で会ったことのない人と見合い結婚した相手が祖父だった。


13年前、みんなで行きつけの寿司屋でお寿司を食べてると

「わての生まれたところはどうなってんねやろ。見たいわあ。」と言うので 

「じゃあ、行こ!」と、

私は祖母と祖母の妹を連れて東京へ行った。

とても喜んでくれてた。

私はいつも祖母がいつかこの世を去る時、

後悔ないようにしたいとどこかで思ってたからだと思う。


祖母との思い出が多すぎて

与えてもらったものが大きすぎて

このお別れが受け止めきれない。


最後に棺に手紙や花を入れてお別れを言った後に

棺を閉める時、

火葬場の炉へ棺が入ってしまって

重い扉が閉まる瞬間、

心が張り裂けそうだった。

お骨拾いをした帰り、

人生で一番悲しい、と思った。


あれから数日が経って

毎日ふとした瞬間に思い出して涙が出る😭

もうどこにもいないんだ、と

心にぽっかり穴が空いた気持ちになる。


今までは、会えなくても存在してくれてるだけで心の支えになっていたのだと思う。



今日久しぶりに仕事にいったら

逆にシャキッとできた。

このことをあまり知らない人と接してる方が気分が切り替えられるなあ。