朝が来ても、主婦は眠れなかった。
カーテン越しの光が部屋を白く染めても、
昨夜の光景が、まだ網膜に貼りついたまま
だった。
――娘の手にあった、あのネックレス。
――向かいの闇に灯った、赤い光。
そして、
《まだ、気づかない?》
あの一文。
守ってきたはずだった。
少なくとも、そう信じていた。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
湯気の向こうで、娘が静かに椅子に座っていた。
「……眠れた?」
何気ない問い。
母として、自然な言葉。
「うん」
娘は短く答え、視線を合わせなかった。
その沈黙の中に、
主婦は確かな距離を感じてしまう。
――いつからだろう。
この子に“隠すこと”が増えたのは。
夫のこと。
あの夜のこと。
ネックレスの本当の意味。
どれも、
「知らなくていい」と思った。
「知ったら、この子が壊れる」と。
でも――
主婦はふと気づく。
壊れないようにとついた嘘が、
すでに娘を孤独にしていたことに。
「ねえ、お母さん」
娘が、ぽつりと口を開いた。
「“守る”ってさ……
誰のためのものだと思う?」
心臓が跳ねる。
「……どういう意味?」
問い返す声が、かすかに震えた。
娘は、テーブルの上に何かを置いた。
あのネックレス。
“R”の刻印が、朝の光を反射する。
「これはね、
お母さんが思ってるより、
ずっと前から“見られてた”」
主婦の喉が鳴る。
「私、全部は知らない。
でも……知らないふりは、もうできない」
その言葉は、責めでも怒りでもなかった。
ただ、事実を置いただけだった。
主婦は、その事実の重さに耐えきれず、
目を伏せた。
――守るためについた嘘。
それは本当に、守っていたのか。
その瞬間、
主婦のスマホが再び震えた。
《嘘は、優しい顔をして近づく》
送り主不明。
画面を見つめる主婦の背後で、
娘は静かに呟いた。
「……見てる人、
まだいるよ」
視線を上げると、
向かいのマンションの窓が、
今度は二つ光っていた。
赤と、白。
誰かが記録し、
誰かが見守り、
誰かが嘘を重ねている。
その輪の中に、
もう“無関係な家族”はいなかった。
主婦は、初めて悟った。
嘘は、
守るために生まれるのではない。
壊れるのが怖い者が、
自分を守るためにつくものなのだと。